カンヌのクリエティビティ・フェスティバルに通いながら
ずっと読んでいたのはこの本である。
今年12,000人参加していようが
この本を彼の地で読んでいたのは僕だけである自信がある。
内藤湖南『東洋文化史』(礪波護責任編集)(2004) を読む。
- 作者: 内藤湖南
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2004/04/10
- メディア: 新書
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もっとも印象に残った一篇は
「大阪の町人学者富永仲基(なかもと)」。
18世紀の半ばに生きた人である。
富永は学問に国民性があると考えた。
それを一字で批評した。
なんでも空想的なことを好む印度人は「幻」。
言葉を飾らないと承知しない支那人は「文」。
そして日本人の国民性は「質」あるいは「絞」。
「絞」というのは正直すぎて狭苦しい。
(日本に帰ってまずこんな弁当が食いたい。同居人と二人分)
毎年年末にその年を一字で表現する試みがあるが、
「絞」には正直参った。
自分の中にも潜む日本人を一字で言い当てられて、
そこから容易に逃れることができない。
正直すぎて狭苦しいから
「質」を保つことができるとも言えよう。
富永の視点でカンヌを見直してみると
意外なことに「なるほど!」が多いのだよ。
幻があり、文があり、絞がある。
日本出品作で賞に残っているのはたいがい「絞」である。
古典はしみじみ親しんでおくものであるな。