内藤湖南『東洋文化史』(2004)


カンヌのクリエティビティ・フェスティバルに通いながら
ずっと読んでいたのはこの本である。
今年12,000人参加していようが
この本を彼の地で読んでいたのは僕だけである自信がある。
内藤湖南東洋文化史』(礪波護責任編集)(2004) を読む。


東洋文化史 (中公クラシックス)

東洋文化史 (中公クラシックス)


もっとも印象に残った一篇は
「大阪の町人学者富永仲基(なかもと)」。
18世紀の半ばに生きた人である。
富永は学問に国民性があると考えた。
それを一字で批評した。


なんでも空想的なことを好む印度人は「幻」。
言葉を飾らないと承知しない支那人は「文」。
そして日本人の国民性は「質」あるいは「絞」。
「絞」というのは正直すぎて狭苦しい。



  (日本に帰ってまずこんな弁当が食いたい。同居人と二人分)


毎年年末にその年を一字で表現する試みがあるが、
「絞」には正直参った。
自分の中にも潜む日本人を一字で言い当てられて、
そこから容易に逃れることができない。
正直すぎて狭苦しいから
「質」を保つことができるとも言えよう。



富永の視点でカンヌを見直してみると
意外なことに「なるほど!」が多いのだよ。
幻があり、文があり、絞がある。
日本出品作で賞に残っているのはたいがい「絞」である。
古典はしみじみ親しんでおくものであるな。