宮下奈都『静かな雨』(文藝春秋、2016)

この作家の文章を読んでいると
言葉によって頭がすっきり整理されるような気持ちになれる。
宮下奈都『静かな雨』(文藝春秋、2016)を読む。


静かな雨

静かな雨


駅のそばのパチンコ屋の裏の駐輪場で
小さなたい焼き屋を営んでいるこよみさん。
勤めている会社が突然たたまれることになり、
職を失った行助(ゆきすけ)。
ふたりの出会いから、
ともに暮らすようになる日々を淡々と物語る。


   ある朝、少女がひき逃げされた。
   倒れた少女をよけようと後続の車がハンドルを切り、
   そこへバイクが突っ込んだ。
   バイクが跳ねて、乗っていた少年は吹き飛んだ。
   歩道まで大きく中に舞い、そのまま頭から落ちた。
   落ちたところに人がいた。
   こよみさんだった。
   少年に直撃されて、こよみさんは倒れた。
                   (pp.30-31)


入院を余儀なくされたこよみさんはやがて回復していくが、
記憶が一日だけしか持たなくなった。
過去の記憶は残っているのだが、
事故以降の記憶が残らない。
行助はある日、こよみさんが二度買ってしまった本棚の本を
彼女に断って借り、読み始める。


   読み始めてびっくりした。
   記憶力をなくした数学者の話だった。
   皮膚がざわざわ粟立つようで落ち着かない。
   数学者は毎朝、自分の記憶が短時間しかもたないことを確認して、泣く。
   

   こよみさんがどんな気持ちでこれを読んだのだろうと思うと胸が苦しい。
   とても美しい小説だったけれど、読むうちに気分が悪くなって、
   最後までなんとか読み通したときには怒りを抑えきれなくなっていた。
   小説に怒っているわけではない。
   まして、こよみさんに怒るのは間違いだ。
   そんなことはよくわかっている。
                            (pp.72-73)


人間は何によって存在するのだろうか。
記憶だろうか。
だとしたら一日分しか記憶を持てない人は、
一日ずつしか存在できないのか。
記憶が人か、人が記憶か。
まだら記憶や認知症の家族を身近に持つ人のことも想像する。


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宮下奈都の作品は現実逃避するでもなく、
どこか遠くから光が差し込むような余韻を残す。
僕はそこが好きだ。


   初出 文學界 2004年6月号
   単行本化にあたり加筆しました。


掲載から12年経って単行本になった。
107頁の中編である。
この作品をどうしても本にしたかった編集者、
読みたかった読者がいたに違いない。


宮下奈都デビュー作。
文學界新人賞佳作入選作品


静かな雨 (文春文庫)

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(二ヵ月前に文庫になった)
博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

(作中でこよみさんと行助が読んでいた本)