100番目の名著は『モモ』でした

Eテレ「100分de名著」、
7月の吉本隆明『共同幻想論』(講師:先崎彰容/全4回)がとても楽しかったので、
8月も続けて視聴することにしました。
今月の名著はミヒャエル・エンデ『モモ』です。
2011年4月に番組が始まり、今回で100作品を迎えました。
講師は河合俊雄さん(臨床心理学者)。



テキストブックの「はじめに 子どもと大人の物語」から引用します。
このテキストブック、毎回担当講師が本気で執筆しています。
 100頁前後のボリュームで税込576円はとてもお値打ち。番組を見なくても役立ちます)


  『モモ』はいわゆる児童文学です。
  (略)


  その中にあって、『モモ』は特に大人向きの本であるように感じます。
  なぜかというと、この作品には強いメッセージ性があり、構造がクリアだからです。
  『モモ』が持つ強いメッセージ性——その象徴が、時間泥棒である「灰色の男たち」
  という登場人物です。
  (略)


  多くの大人の読者は、灰色の男たちをアレゴリー(寓喩=ぐうゆ)としてとらえ、
  そこに『モモ』が持つ文明批判的な側面を見出すことでしょう。
  (略)


  しかしながら、それは物語としての弱さであるかもしれません。
  どういうことでしょうか。

                           (pp.4-5)



確かに、昔この本を手にしたときに「文明批判的な側面」がどうも気になって
読み進めることができなかった体験が僕にはあります。
寓喩——なんだか、時間を大切にしない大人(自分を含む)への
お説教のような気配を感じて敬遠してしまったのかもしれません。


河合さんはさすがにクライエント(来談者)を持つ
セラピスト(心理療法家)だけのことはあります。
クライエント(この場合は、僕)の心理を読み取って、
バリアーをいったん外して虚心に本書に接してみては
と提案しているかのようです。
続いて、作者のエンデ自身の言葉が引かれます。


  しかし作者のエンデは、あるインタビューで
  「私の本は、分析されたり解釈されたりすることを望まない。
  それは体験されることを願っている」

       (子安美知子『エンデと語る』朝日選書)


  と語っています。
  作品の構造はクリアで解釈がしやすいのに、
  それとまったく逆のことを作者は志向しているわけです。
  解釈を誘う作品と、解釈を拒んで物語が体験されることを願う著者。
  今回「100分de名著」で『モモ』を論じるにあたり、
  私はいずれかの立場をとるのではなく、
  解釈することのおもしろさと、
  物語としてのおもしろさの両方に注目したいと考えています。

                             (p.6)


どうです、河合講師の、この語り口。
僕は思わず引き込まれてしまいました。
エンデが言っている「私の本は体験されることを願っている」とは
いったいどういうことを意味しているのでしょうか。
いまの僕にはまだボンヤリとしか分かりません。
気になります。


モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))


以前持っていた『モモ』の単行本(箱入り)は処分していたので、
古書で岩波少年文庫版を再入手しました。
訳者大島かおりさんの「訳者のあとがき・付記」にこう書いてありました。


  しかし翻訳としては、三十年という年月を経過して、
  いまの日本語の語彙や表現から見て、
  いうなればことばの賞味期限が切れかかっているように
  感じられる箇所が散見しますし、
  訳者の未熟さゆえのまずい表現も気になりますので、
  このたび、岩波少年文庫版での出版を機に、
  いささかの訂正を加えさせていただきました。
  これらの点について、
  これまでご指摘やご助言をお寄せくださったかたがたに、
  この場をお借りして厚くお礼を申しあげます。

                     (2005年4月 訳者)

                (岩波少年文庫版『モモ』p.406)


大島訳が初めて出版されたのは1976年。
原著が発表された1973年からわずか三年後のことでした。
この岩波少年文庫版が出たのが初訳から29年後の2005年。
より新しい版を手にしたとき、
とりわけ文庫では解説、付記など読めるのが
読者にとってはもうひとつのお楽しみです。
(洋書のペーパーバックにはまず見られない「おまけ」です)


この番組、チームワークがいいことは
ウェブサイトの丁寧な作りを見ても分かります。
ここでは裏話などが読めます。
「二度おいしい」とはこのことですね。