「運・鈍・根」と「鈍・鈍・楽」


タイトルのよさに惹かれて
久しぶりに城山三郎のエッセイを手にした。
以下、僕が読んだ順である。


  城山三郎『どうせ、あちらへは手ぶらで行く』(2009/2011文庫版)
  城山三郎『そうか、もう君はいないのか』(2008/2010文庫版)
  井上紀子『父でもなく、城山三郎でもなく』(2008/2011文庫版)
  城山三郎『無所属の時間で生きる』(1999/2008文庫版)


どうせ、あちらへは手ぶらで行く (新潮文庫)

どうせ、あちらへは手ぶらで行く (新潮文庫)


井上紀子は城山三郎の次女であり、
城山の妻・容子が亡くなった後は
城山にもっとも近い場所で仕事、生活を支えた。
井上の本は父・杉浦英一(城山の本名)と暮らした日々を
追憶した書である。


そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)


若い頃「運・鈍・根」という言葉に出会い、
「運」と「根」については分かった気がするが、
どうして真ん中の文字は「鋭」でなく
「鈍」なのだろうと疑問に思っていた。
人間は鈍いより鋭い方がいいに決まっているではないか
と思い込んでいたのかもしれない。


父でもなく、城山三郎でもなく (新潮文庫)

父でもなく、城山三郎でもなく (新潮文庫)


城山の座右の銘のひとつに「鈍・鈍・楽」がある。
孫娘、裕子が登校拒否に苦しんでいたときも、
激励でもなく教訓でもなく、ただこの言葉をそっと贈った。
城山本人も認めているように「不器用」な人である。
しかし、おのれの戦争体験に基づき執筆を始めた作家は
「不器用」であるからこそ仕事を、作品を残した。


無所属の時間で生きる (新潮文庫)

無所属の時間で生きる (新潮文庫)


手先が器用な人はおおいにうらやましいが、
生き方があまりに器用な人はうらやましいとは思わなくなった。
若い頃に魅力に感じなかった「鈍」の文字に
なんとも滋味のある味わいを感じるようになった。


(文中敬称略)