予感、幸運、信頼


予感というのは案外当たるものである。
木曜朝、普段なら会社には革靴を履いていくのに
一瞬迷って動きやすいスリップオンの靴を選んだ。



大病院で診察を受けるために会社を出るとき、
MacBook Air、ポケットWiFi、充電器など一式を
トートバッグに入れてきた。
すんなりとは会社に戻ってこられない予感がしたのだ。
それらの道具は入院生活で現在フルに活躍している。
その代わり飲みさしのレモンソーダ
デスクに置きっぱなしで飛び出してきてしまった。
(デスクAさんにメールでお願いして片付けてもらった)



幸運が味方してくれた。
社の健康管理センターM医師の都合を優先するなら
血液検査の結果を知るのは来週だった。
僕の夏休みとぶつかる都合で告知を早めてもらった。
その結果、以前診てくれたH先生が担当になり
数値を見てすぐに大病院につないでくれた。
結果を知らずに一週間普通の暮らしを続けていたら
身体がもってくれていたかどうか。



その大病院でたまたまN部長が
午前中の臨時診察を受け入れてくれた。
前日まで満杯だった病室にも運良く空きがあった。
病院という所はいつだって多忙で行列で満杯で
本来こちらの予定通りになどは動かない場所なのだ。
それが一気に動いたのは幸運としか言いようがない。



     (きのうの朝食から普通食に復帰しました!)


予感があり幸運があって入院生活四日目である。
タイミングよくみなさんに助けていただき痛みはほぼない。
昨夜で点滴が終了した。
夜中に懐中電灯片手に看護士さんがチューブを外し針を抜いてくれる。
もちろん事前に予告してくれているから不安はない。
そんな時間まで働く姿に感謝の気持ちが自然に湧いてくる。



看護士さんたちは実によく働く。
気働きがあり、あいさつなど言語コミュニケーションにたけ、
患者たちのわがまま、心配、注文も軽快に受け止める。
遊撃手のファインプレイを見ているようだ。
この人たちの働く姿を見ていると、
社会に対する信頼という意味を
具体的かつ身体的に考え直すことになる。