ベルリンスクール入門(その2)

第2回ではまずどうしてベルリンスクールが
生まれたのか誕生のエピソードに触れてみましょう。
これが理解できないと、
ベルリンスクールの情熱、カリキュラム、ビジョンが
理解できないからです。
まだ進行中のプロジェクトですから
守秘義務に触れない範囲で書いてみます。


僕が当時の上司Nさんとマイケル・コンラッドさんの
チューリヒの自宅を訪れたのは2005年2月でした。
コンラッドさんの自宅は世界のサッカーの総本山FIFA
すぐ近くにあり、僕たちが到着した最初の晩は
FIFAが経営しているレストランに招待してくれました。


コンラッドさんは言います。


「世界が5つのメガエージェンシーネットワークに支配されるように
 なってからというもの、広告やコミュニケーションの創造性に
 フタをされて閉塞状況が生まれた」


「いま、世界が必要としているのはクリエーティブ・リーダーシップ
 である。これまでのリーダーシップはもう役に立たない。
 これまでの常識を破壊する創造的なリーダーシップを
 世界は求めている」


「クライアントのトップの大部分はMBAの教育を受け、
 それを勝ち抜いてきたエリートである。
 それだけに計数的、管理的リーダーシップに長けているが、
 その反面、人間の創造性に対する洞察や信頼が弱い。
 その弱点が個人や組織の創造性を阻む限界を創っている」


コンラッドさんは東ドイツライプチヒで苦学を続け、
真新しくて、ラディカルなエージェンシーを友人たちと
起こしました。そのエージェンシーが成功をおさめ、
やがて世界中のエージェンシーの知るところとなりました。
彼らはコンラッドさんに自分の会社のクリエーティブ部門のトップに
なってくれと頼みに来ました。


コンラッドさんはたくさんのオファーから
アメリカのエージェンシー、レオ・バーネットを選び、
全世界のクリエーティブのトップである
チーフ・クリエーティブ・オフィサー/副社長を10数年務めました。
コンラッドさんのリーダーシップの元、レオ・バーネットは
クリエーティブの質で世界ナンバーワンの位置まで上り詰めました。


そうした激しい仕事にピリオドを打ち、
リタイア生活を楽しもうとしていた矢先、
ドイツアートディレクターズクラブのセバスチャン・ターナー
コンラッドさんの家のドアをノックしたのです。


「世界になかった、この新しい学校の学長を務められるのは
 世界中を見渡してもあなたしかいない。
 ようやく二人だけの時間を過ごせると期待していた
 ヘルガ夫人には本当に申し訳ないと思うが、
 どうか学長を引き受けていただきたい」


こうしたやりとりが僕たちがチューリッヒを訪れた2005年を
さらに3、4年さかのぼった頃、交わされていたのです。
僕はこうした人材育成の次世代の世界的潮流を、
自分の会社の人材育成になんとしても結び付けたかった。
そうした橋渡しをするため、雪深いチューリヒを訪れていたのです。
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写真右の笑顔の人がマイケル・コンラッド学長。
コンラッドさんに出会った人はみんな彼のファンになってしまいます。
左が僕の出向元の先輩、鏡さん。
ベルリンスクール理事(Governor)を日本でただひとり務めています。