消える港、Tony's Bar

いつもそこにあるはずの場所、いるはずの人がいなくなることは
人間になんと喪失感を与えるものだろう。
銀座のはずれ、新橋にほど近い場所の地下にあるTony's Barは
30年間近く、僕たちの港のような場所であった。



僕はこのバーの主人だったトニーさんにずいぶんいろんなことを
教わってきたと思っていたが、トニーさん自身はなにひとつ、
言葉にして押し付けがましくものを教えたことはなかった。


自分で給料を稼ぐようになったら、
行きつけのバーのひとつくらいは持つとよい。
気に入ったバーが運良く見つかったら、
そこには自分が気に入った友人だけを連れていくがいい。
分不相応に高価な酒を知ったかぶりして注文するのは愚かなことである。



例えばそんなことを僕は教わってきたように思っていたが、
トニーさんは具体的な言葉にして客に教えたことはなかった。
ちょっと困った表情、グラスを磨きながら取る間、
感情に流されず静かに発する言葉。
そうした立ち居振る舞いのすべてで
男がバーで過ごす作法を教えてくれていたことに
あらためて気づいた。


この年が終われば僕たちの港は消える。
そうした喪失感に耐えることが大人になることだとしたら、
大人とはずいぶんなやせ我慢を求められる存在に違いない。
Tony's Bar、銀座にて1952年開店、2009年12月28日閉店。