谷沢永一・向井敏『読書巷談縦横無尽ーとっておきの50冊』(1980)

谷沢永一向井敏『読書巷談縦横無尽ーとっておきの50冊』
(1980/1985文庫版)を読む。
東西きっての読み巧者のふたりが
少数精鋭、本当におもしろいと認めた本だけを紹介する
15時間の対話である。



「まず対談風のまえがき」で谷沢は言う。


   (前略)本を読むのに専門家ヅラは滑稽千万、
    世に飯を食うことの専門家がいないように、
    本を読む専門家なんているわけがない。
    全部の本に手ぶらで向かうのがぼくらの流儀と
    ひそかに自認したい。


                         (p.10より引用)


昨今は「飯を食うことの専門家ヅラ」が
あちらこちらに跳梁跋扈しているなぁと僕は苦笑しながら
谷沢の小気味いい台詞を味わう。
二人の対話に耳を澄ませるうちに
ひっそり忘れられかけている本を手にしたくなる。
例えば、安東次男『花づとめ』、E.H.カー『カール・マルクス』、
林達夫共産主義的人間』、木村尚三郎『歴史の発見』。



一方思わず苦笑いしたのが
「ニュージャーナリズムと文学」の章で
沢木耕太郎の著作を評する谷沢の言葉。


    それともうひとつ困るのは沢木耕太郎なんかの終末論意識。
    このまま放っておくと、こいつらワルモノたちは
    事態を破滅的に悪くする、
    だから自分は悪くしている元兇のやつら、
    あるいは悪くなりつつある地獄への行進にみんなの注目を集めて、
    歯止めをかけるために頑張っているのだ
    という悲壮顔の使命感がある。
    ことに沢木耕太郎の場合はそれが歴々と現れている。


                           (p.272)


    それから先ほどの沢木耕太郎の場合は、
    自分で勝手に精神的昂奮剤を打っているような
    子供じみたところがある。


                           (p.273)


谷沢の容赦ない「紙つぶて」には
「あ、だから僕は沢木にはまっていたのだ」
と共感できるところがあるのだ。
悪口に知性を感じる。
谷沢、向井とも既に鬼籍に入るが、
二人の対話は35年以上たついまも鮮度を失っていない。
こうした手練れの道案内で読書の世界に入っていく若者たちが現れると
日本も面白くなるんだがな。


読書巷談 縦横無尽―とっておきの50冊 (講談社文庫)

読書巷談 縦横無尽―とっておきの50冊 (講談社文庫)

縦横無尽―読書巷談 とっておきの50冊 (1980年)

縦横無尽―読書巷談 とっておきの50冊 (1980年)


(文中敬称略)