日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で


水村美苗日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』を読む。
ソウル滞在二日目の夜、うまく寝つけなくて
ネットで梅田望夫のブログ
"My Life Between Silicon Valley and Japan"を読んでいて
この著作が発表されたことを知った。


http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107


真夜中だったが、その場でアマゾンに注文し、
東京に帰ってほどなく届けられた本を
このところ少しずつ読んでいたのだ。


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で



言語と社会と人間のあり方について
骨太な論が展開されていて読みごたえがある。
僕自身、認識を新たにした箇所がいくつもあった。
インターネットの出現により
英語の世紀に生きることになった私たちに
〈読まれるべき言葉〉としての日本語の
過去・現在・未来を考えさせる書である。


日本語は亡びる運命なのか。
それとも、生き延びることが可能か。
そして言語にとって真に生き延びるとは、
どんな条件を満たすことなのか。
水村の考えは明快かつ論理的である。



僕自身「二重言語者」として
ときには他人より優位な立場に立つことを経験したり、
反対に日本と西洋のはざまで
言いようのない気持ちにとらわれることがある。
そして英語の世紀であるからこそ、
日本語をもう一度学び直す必要があると
危機を感じているひとりである。


それだけに水村が5年の歳月をかけて完成したこの著作は
感銘を覚えるだけでなく、
これまでとは異なる角度から
言語の問題の本質に迫る知的武器ともなった。



「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに
 主眼を置くべきである」
「具体的には、翻訳や詩歌も含めた日本近代文学の古典を
 次々と読ませる。
 しかも、最初の一頁から最後の一頁まで読ませる」


水村の提案を、英語の世紀に逆行するものだと
早とちりしてはいけない。
梅田が自身のブログで提案したように、
水村の著作を議論の出発点とすることに僕も賛成である。
きょうは第一印象を記すにとどめるが、
この問題について本格的に考えてみることにする。


(文中敬称略)