火星人が書いた地球の歴史

宮崎市定『中国史(上)』(1977)を再読する。
先生、70代中盤の作品である。
筆に少しも衰えを感じないどころか、
既知数の研究者でなく未知数の世代を読者に想定した
本書の気迫はどうだろう。



中国史 上 (岩波全書 295)

中国史 上 (岩波全書 295)


先生の歴史観は半端ではない。


   歴史は観念ではなく最も具体的な現実である。
   もしも火星人がいて、
   数千年間地球を精密な望遠鏡で観察していたなら、
   恐らく私と同じ結論に達したであろう。
   歴史はたとえ火星人にでも理解されるほどのものでなければ
   本当の歴史とはいえない。


    (向井敏『表現とは何か』p.58より孫引き。
     原典は宮崎市定『アジア史論考』中巻「東洋的古代」)



数千年に及ぶ中国史を先生の筆を通じて観察していると、
簒奪、禅譲、革命などで権力が動く姿が浮き彫りになる。
ミクロの眼で見れば
多くの命が奪われ街が破壊される悲惨な光景である。
一方俯瞰で見れば
数千年かけて人類が全体としては進歩している様が見えてくる。



古代中世の政治において専制と独裁が異なることも
常識をいま一度疑うための指摘であった。
ある時期の歴史の歯車は、
専制君主の決断と実行なしには回転しない。
人間が集団をなし社会を構成するときに起こりうることは
過去数千年の歴史からかなりの程度予測可能である。



現代社会や会社組織で起こることを
人類史数千年分のビッグデータから眺め思考する訓練が要る。
ビッグデータとは、いま、このときを捉える
デジタル領域の現代的トピックだけではない。
先生の著作を再読し、僕はそう考えた。


表現とは何か

表現とは何か


(文中一部敬称略)