マイケル・ローゼン『悲しい本 SAD BOOK』(2004)


『電通報』で連載しているコラム「セカイメガネ」
編集担当の同僚Sさんに教えてもらい近所の図書館で借りてきた。
マイケル・ローゼン作/クェンティン・ブレイク絵
谷川俊太郎訳『悲しい本 SAD BOOK』を読む。


悲しい本 (あかね・新えほんシリーズ)

悲しい本 (あかね・新えほんシリーズ)


「セカイメガネ」は同僚が書いた英語原稿を
フリーランスの方に下訳してもらった上で僕が翻訳している。
僕の翻訳の文体・リズムが
谷川さんのこの絵本の翻訳にどこか似ているとSさんが言う。


Sさんは社の育児勤務制度を利用して働き
二人の子供を育てている。
息子さんに読んでやりたくてこの本を買ってきた。
谷川さんは僕も好きな作家だったから、
興味を惹かれた。


こんな一節が目にとまる。


   誰にも、なにも話したくないときもある。
   誰にも。どんなひとにも。誰ひとり。
   ひとりで考えたい。
   私の悲しみだから。ほかの誰のものでもないのだから。


主人公は妻も息子エディも亡くして独りぼっちだ。
どうしようもない悲しみを抱えてそれでも生きている。
その悲しみが少しでも減らそうとあれこれ試みる。
どの試みもうまくいかないときには悲しみを黙って受け入れる。



同じ立場に立たされたとき、
果たして僕に主人公と同じような態度がとれるか自信がない。
大人になった分、自分の悲しみも他人の悲しみも
想像ができるようにはなった。
それをどうしようもできない自分がいることも
同時に知ってしまった。


この世にはそんな悲しみが存在していて、
大人になるにつれ誰でも持つようになることは
子供たちも知っておいた方がいいのかな、と思った。
でも、まだ知らない方がいいのかな、とも思った。


(「セカイメガネ」最新コラム「嵐の後に、虹をかける」
 下線部クリックでお楽しみください。マニラの同僚Joey執筆です)


(文中敬称略)