この国で私は、200%首相になりえなかった(野中広務)


スクラップブックから
朝日新聞2018年2月8日朝刊
寂聴 残された日々32 「みんな先に逝く」
交友のあった野中広務さんの想い出を語る



   そんなある日、突然野中さんから
   筑紫さん(引用者注:筑紫哲也さん)と私の2人が、
   天ぷら松の小室に招待された。
   3人でいっぱいになる部屋に落ち着いた瞬間、
   涙ぐんだ表情になった野中さんが、乾杯の盃を置くと、
   いきなり、自分の身の上を語りだした。


   私たちは大方のことは知っていたが、
   野中さん自身の口から、
   小学5年の時、親友の母から、
   出自についてののしられた経験を聞かされて、
   身を固くしてしまった。


   「私は彼女の言っていることがよくわからず、
   家に帰って父親に言われたことを告げ、
   何のことかと聞きました。
   その時、父が、実に学術的にそのことを
   きちんと話してくれたのです。



   私ははじめて、事の次第を理解すると同時に、
   それまで抱いていた未来へのすべての夢や希望を
   自分から打ちくだいてしまったのです。
   大学へゆくことも学問をつづけることも、
   すべての希望を捨ててしまったのです。


   官房長官自民党幹事長になりましたが、
   この私が首相になるなど、
   この国でなり得るはずがない。
   200%の割合で、私は首相になどなりえませんでした」
   毛糸の帽子をかぶった筑紫さんの頭が垂れていた。
   (引用者注:筑紫さんは肺がんであることを自分の番組で
   公表。休養して京都に住んでいた。当時髪を剃(そ)り、
   毛糸の帽子をかぶっていた)



出自の差別によって首相になり得ないことが
野中さんにとってどれほど口惜しいことだったか。
親しい寂聴さんと筑紫さんと
三人きりの宴席だったからこそ
出てきた述懐だったろう。


官房長官自民党幹事長として
頼られ、恐れられた野中さんにして
それほど首相になりたかったのだ、と驚く。
政治家として仕事をする以上、当然のことなんだろう。
(下線リンク先「ジャパン・ナレッジ」/イミダスから引用)


その告白を墓場に持っていくことなく、
逝去後のタイミングを見計らって
追悼しつつも連載で取り上げた
寂聴さんの作家としての業と覚悟。


自民党は好きになれないが、
野中さんの人柄、仕事ぶりは好きだった。
発言と行動に覚悟があった。
(2018年1月26日逝去。享年82。合掌)


老兵は死なず 野中広務全回顧録

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差別と日本人 (角川oneテーマ21 A 100)

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wikipedia:野中広務