高峰秀子『わたしの渡世日記(下)』(1976/2012文庫版)


高峰秀子『わたしの渡世日記(下)』を読み終える。
本文の面白さはいまさら言うに及ばないが、
巻末に掲載されている沢木耕太郎の解説が絶品である。


   彼女は、このどこにもいないはずの「高峰秀子」に向かって
   ゆっくりと成熟していったように思われる。


                          (p.399)


わたしの渡世日記〈下〉 (新潮文庫)

わたしの渡世日記〈下〉 (新潮文庫)


高峰秀子高峰秀子との長年の格闘によって
高峰秀子になっていった。
生涯、愛憎半ばする天敵養母の芸名が「高峰秀子」だったのだ。


   娘に執着し、金に執着した養母が存在したからこそ
   『わたしの渡世日記』における「渡世」が存在した。
   結婚してからは「生活」、
   それも極めて波乱の少ない「生活」があるだけになった。


                          (p.398)



ターゲットに対する正確な距離を目測し
そこにアプローチしていく沢木の筆は冴えている。
まるでゴルゴ13の狙撃である。
かつて井上陽水榎本喜八らにアプローチしていった
若き日の沢木の硬質な文章を思い出す。


沢木の解説を受けて養女斎藤明美が書いている。
斎藤は編集者である。


   「高峰秀子というものはもともと存在しない。
    沢木さんがそう書いてたッ」
    高峰は胸を張るようにして、私に言った。


                    (p.401)



高峰の上下二冊の自伝を読んで
あらためてこの時代の日本映画を観たくなった。
高峰の本文から引用する。


   昭和二十六年から三十年までの五年間は、
   戦後の映画の優れた収穫期だった。
   映画人の情熱と誇りが噴火のように
   噴き出し、ほとばしり、きらめいて、
   演出家はもちろんのこと、映画にたずさわるすべての人間が、
   自分たちの仕事を競い合い、勉強し合い、
   優れた作品を生み出すために、
   過去の経験になお創意工夫をこらして働いていた。


                    (p.305)


芸術は困難、逆境から生まれるものなのか。
戦後日本の映画界の収穫期を想像してみる。
それにしてもたった五年間のことだったのか。


(文中敬称略)