宇野弘蔵『資本論五十年(上)』(法政大学出版局、1970)


理論を説く人の人柄に触れることで
理論への興味が深まることがあるんだなぁ、と思う。
宇野弘蔵資本論五十年(上)』(法政大学出版局、1970)を読む。
弟子たちによる聞き書きの自伝である。


資本論五十年〈上〉 (1970年)

資本論五十年〈上〉 (1970年)


「はしがき」から引いてみる。


   もっとも、この長い過程を
   直接に自ら誌すということは
   到底できそうになかったので、
   三、四人の友人に援助を求めて聞き手になって貰い、
   これをテープにとって原稿にし、
   それに加筆する方法をとった。


   法政大学の時永淑、日高普、渡辺寛(現在東北大学)の三君と
   武蔵大学の桜井毅君をレギュラー・メンバーとし、
   その他二、三の諸君にも時どき加わって貰って、
   月に一、二回土曜日の午後を実に二十二回にも亘って
   会合することになった。
   これらの聞き手になってくれた諸君には心から感謝している。
   (同書iv〜v頁より引用)


冒頭にはこうある。


   若いときから私にとっては友人と雑談するのが
   何よりの楽しみだった。
   (中略)


   法政大学に勤めるようになってからは、
   自分の研究室に常時いるというのでなく、
   毎週二、三回講義のために出かけることになったので、
   そのせいもあって出かける日は
   必ず昼食を職員食堂ですまし、
   食後二、三十分若い諸君と
   雑談することを楽しみにしてきた。


   おそらくこの雑談に時どき加わった
   法政大学出版局の稲義人君の思いつきからだと思うが、
   こういう書物をつくることになった。
   (同書i頁より引用)


経済原論 (岩波文庫)

経済原論 (岩波文庫)


宇野の『経済原論』が精髄を伝える講義であるなら、
資本論五十年』は肩の凝らないゼミである。
隅の席で珈琲カップ片手に傍聴させてもらううちに
宇野の人柄が伝わってきて
なんとなくファンになってしまうのだ。


頂点を極めた学者であるにも関わらず、
いやだからこそなのか、
分からないことは分からないと言い、
自分の限界をきちんとわきまえる。


その代わり、自分が分かったことに関しては、
相手が誤解したり、理解が浅ければ、
容易なことでは妥協せず容赦もしない。
こんな先生に習う『資本論』なら
タメになるだけでなく、面白いのも道理だ。


(文中敬称略)