ソからドへと弾いて、それだけで不意に涙がにじんだ

クリッピングから
毎日新聞2020年6月27日朝刊
音のかなたへ 梅津時比古
「ソからド」だけで


綺麗な文章を書く方だなと思い、
新聞の頁を繰る手が止まった。
確か先月もそうだった。
特別編集委員・梅津時比古さんのコラムだった。


  あるバイオリニストからのメールの最後に、
  ソからドへと弾いて、それだけで不意に涙がにじんだ、とあった。
  ソとドでこんなにも感動するなんて、
  コロナ騒動でかつえていたからかもしれません、と書き添えてあった。


  新型コロナウイルス禍で、演奏家は演奏会で弾けず、
  先生も生徒も対面レッスンもできず。私たちも演奏会を聴けない。
  実際に目の前で生まれる良い音、良い音楽から、私たちは限りなく遠ざけられた。


  メールでは曲も何も分からなかったが、
  ソとドのつながりから、ふとパガニーニの ≪モーゼ幻想曲≫ が思い浮かんだ。
  ピアノのハ短調の分散和音の上に、
  バイオリンが一番低いG線のソからドを経て
  ゆっくり上行してゆく哀切に満ちたフレーズである。


  G線1本で弾くように指示されているので、
  高い音はフラジョレット(倍音奏法)などを用いて
  弾かなければならない難曲である。
  正式名は ≪「エジプトのモーゼ」の
  「汝(なんじ)の星をちりばめた王座に」による序奏、主題と変奏曲≫ 。
  (略)


  エジプト兵に追い詰められたモーゼとイスラエルの民衆が、
  紅海を前にして逃げ場を失う。
  海に向かってモーゼが頭上に両手をあげて祈り、
  民衆が耐えかねたように「汝の星をちりばめた王座に」を歌う。


  紅海が真っ二つに裂け、突然現れた道を伝って民衆は逃げ、
  追いかけようとしたエジプト兵は、元通りになった海にのまれてしまう。
  モーゼが死を覚悟した姿を目にすると、
  その旋律を主題にしてパガニーニが苛烈な技巧を用いた意味がわかる気がした。
  演奏難度を上げたのではなく、
  苦しみと渇望の果てに歌われる人間の声を表したかったのであろう。
  (略)


  私事にわたって申し訳ないが、亡父は軍人であった。
  本人は一切話さなかったが、かつて母から聞いたところによると、
  旧満州(現中国東北部)にSPレコードを持って行き、
  何人かの兵隊と交響曲の ≪未完成≫ や ≪悲愴≫ を戦地で聴いていたという。
  そのようなことが陸軍で許されたことにひどく驚いた。


  すぐにも戦闘が始まる身に比べるべくもないが、
  その時の父や兵隊皆の渇望に少しは思いをはせることができる。
  父とはなかなか意思疎通できなかったが、
  コロナ禍の中で、父に語りかける気持ちになった。

                     (特別編集委員、第4土曜日掲載)


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梅津さんのこれまでの著作をAmazonで調べてみると、
すべて音楽にまつわるものだった。
この連載「音のかなたへ」も単行本として出版されていた。
添えられたモノクローム写真が文章とシンクロナイズしている。
尾籠章裕撮影)


音のかなたへ (毎日新聞出版)

音のかなたへ (毎日新聞出版)

耳の中の地図

耳の中の地図



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(毎日5/23付「音のかなたへ ゴミ捨て場のモーツァルト」(梅津時比古))