明日から、もし残ったらここに持っておいで(屋台店のおばさん)

クリッピングから
朝日新聞2023年2月25日朝刊別刷be
山田洋次「夢をつくる」14
ちくわを買ってくれたおばさん


  おでんを食べるとき、
  まずちくわを探すという癖が僕にはある。
  ちくわには遠い昔の忘れられない思い出があるからです。
  前にも話しましたが、
  旧満州からの引き揚げ者はみなそうだったように
  わが家は生活難で食べるのにせいいっぱい、
  中学生の僕も学費稼ぎでいろいろなアルバイトをしました。
  その一つにちくわの卸売りがありました。
  (略)


  自転車の荷台に載せたミカン箱に
  50本から100本のちくわを積んで売り歩くのだが、
  きれいに売れる日ばかりとは限らない。
  ある日、大量に売れ残ってしまった。
  さてどうしよう、このままじゃ大赤字。
  そこで考えたのは、
  川を越えて隣町へ行くと私設の草競馬がある、
  そこの屋台店で買ってくれないかということでした。


  自転車を懸命にこいで
  ちょっと怪しげな感じのする小さな競馬所にたどり着き、
  一軒の屋台のおでん屋に入って白い割烹着(かっぽうぎ)のおばさんに
  「ちくわを買ってくれませんか」とおずおず言うと
  「坊やは中学生かね」と聞くので、
  引き揚げ者なので学費を稼ぐために
  アルバイトをしていますと答えたら、
  おばさんは「残ったちくわをみんな置いていきなさい」と言い、
  さらにこういう言葉を加えてくれたのです。
  「明日から、もし残ったらここに持っておいで。
  おばさんが全部引き取ってあげるけえ」
  僕は今でもそのときのことを思い出すと目頭が熱くなる。
  (略)


  …監督になってからずっと思い続けているのは、
  あのおばさん、競馬場の屋台店で働いていたあのおばさんが見て
  「訳がわからないよ」というような映画は
  決して作りたくないということです。

                    (聞き手・林るみ)



  9面の山田洋次監督の「夢をつくる」の
  ちくわのエピソードに反響多数。
  「心を温かくしてくれました。
  監督の映画の親しみやすさ、わかりやすさが
  ここから生まれたのだ、と納得しました」
  (高知、84歳女性)

   (be 2023年3月4日掲載「みなさんから」)