クリッピングから
朝日新聞2022年10月8日朝刊別刷be
山田洋次「夢をつくる」8
23作目「翔(と)んでる寅次郎」の北海道ロケの時のこと。
ロケ現場に向かうべく僕は渥美さんと肩並べて
白樺(しらかば)の林を歩きながら、つい愚痴をこぼしたのです。
「作品が気にいらなければ無視してくれたらいいのに。
なぜあしざまに活字にして悪口を言うのだろうね。
こっちは一生懸命つくっているのに」。
そのとき渥美さんは穏やかな声でこう答えてくれたものです。
「人間というのは、その人が自信をもっているときは
彼がどんなに謙虚であろうと努力しても、
傍(はた)からはちょっと傲慢(ごうまん)に見えたりするものなんですよ」
(略)
思えば渥美さんの日常は禁欲的な哲学者のそれに似てました。
寅さん以外の出演は一切断る、執筆や講演もやらない、
彼の少年時代の波瀾(はらん)万丈の物語が面白くないわけがないから
何十社という出版社から自伝執筆の依頼があったけど、
役者はもの書きではありませんと拒否。
撮影の合間は何をするかというと、
読書、親しい友人と俳句の会、
都内の演劇や映画を片っ端から観(み)て歩く。
「僕は自分が芝居をするより観るほうが好きなんだな」
と真顔で語ったことがある。
酒は飲まないし、食事はいたって簡単。
身だしなみも一切かまわない。
(略)
いつも手ぶら。
財布やカバンはもたない、
お金は封筒にお札を入れてポケットに収める。
背広は着ない。
(略)
マイカーは持たず外出は電車を愛用していましたが、
仕事場のあった代官山駅の売店のおばさんに1万円を預けておいて、
新聞を買うたびに「まだお金は残っているかい?」
と聞いていたのは有名な話です。
(略)