クリッピングから
朝日新聞2022年9月17日朝刊別刷be
山田洋次「夢をつくる」7
寅さんシリーズが始まって7作目か8作目の頃。
映画界でそんなに続いた例はないし、
なんだかみっともないからこの辺でやめたほうがいいと思うけど、
と僕は渥美さんに提案したことがある。
それに対して彼はこう答えたのです。
「5作目を封切った頃、
私が東京駅のホームで遅い時間に電車を待っていたら、
酔っ払ったサラリーマンが通りかかり、
私を見てニコニコ笑いながら『いつも寅さん、見てるよ』と言った。
私は『ありがとうございます』と答えたけど、
その彼が去り際に『渥美清は元気かい』と言う。
『元気ですよ』と答えたら『よろしく言ってくれよ』
と言って機嫌よく行ってしまった。
私は2作目、3作目とこのシリーズが評判になり出した頃は、
若い娘なぞが私を見てクスクス笑って
『あら寅さんだ』などと言ったりすると、
内心、あれは役として演じているのであって、
本物の渥美清はあれほど馬鹿じゃない、
新聞くらいちゃんと読んでますよと思ったりしてたけど、
東京駅でそのサラリーマンに会った頃から考えが違ってきた。
この役をいい加減に演じていると、
田所康雄は車寅次郎に追い越されるぞという
不安のようなものを感じるのです」
渥美さんはそれだけ言ってにこやかに席を立っていったけど、
それが返事だとよく分かった。
(略)