あぁ、僕の宝物の落語全集が……(山田洋次)

クリッピングから
朝日新聞2022年7月2日朝刊別刷be
山田洋次「夢をつくる」4


  敗戦で預金も株券もゼロに。
  土地も家もすべて失った。
  満鉄(南満州鉄道)に勤めていた父は失職。
  衣服や家具、時計、父のカメラなどを売って食糧に換え、
  空腹をしのぎました。


  ストーブにくべる石炭を買う金がなく、
  家具を壊し、知り合いが残していった本を燃やしました。
  チェーホフ全集とか革表紙の本は壊すのが大変な上、
  上質な書籍ほど紙も燃えにくかった。


  明日、引き揚げ船に乗るというとき、
  なけなしの家財から何を持っていくか、
  リュックを前にして家族で大議論。
  僕は宝のようにしていた落語全集を持って行きたかったけど、
  父にどうしてもダメだと言われた。
  どっしり重い上下2巻でしたから。
  (略)


  結局、僕のリュックに中は衣料と辞書、文房具、
  そして食べ物でいっぱいになりました。
  僕たちが家を出るなり、
  待機していた中国人の貧しい少年たちが
  わーっと中に入って家具類を奪い出すのが見えました。


  あぁ、僕の宝物の落語全集が……。
  日本語を読めないからストーブで焚(た)くに決まっている。
  涙が出るほど悔しかったものです。
  (略)

                    (構成・林るみ)