この企画を耳にしたとき、「あ、それはいい」と直感した。
図書館で予約し、手元にやってくるのを待っていた。
ロバート・キャンベル『井上陽水英訳詩集』(講談社、2019)を読む。
- 作者:ロバート キャンベル
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2019/05/16
- メディア: 単行本
「第1章 時を彷徨う中で」から引用する。
2011年8月3日から9月17日までの入院中
(引用者注:著者は感染性心内膜炎で聖路加国際病院に入院し
心臓手術を受けた)、仕事をしてはならない、と医師に言われていました。
看護師が窓を開けると築地の街路樹にしがみつく油蝉の鳴き声が聞こえました。
外出も許されず、病室の淡い空色に塗られた天井を見つめていたら、
ふと井上陽水さんの歌詞が再び浮かんだのです。
生と死、虚実の皮膜のあいだ。
陽水さんはそういう場所が好きらしい。
大勢で踊らせない、心で鳴る音楽ですから場所も時も選びません。
そもそも踊れる状態ではないし、揺れることすらままならない。
ならば、彼の歌詞を訳してみよう。
午後から、一日1曲。
iPadで陽水さんの声を聴きながら歌詞サイトを眺め、英訳を試みました。
透明なカテーテルが尿管につながれ、筋肉もバターのように溶けていく。
痛みが激しいのでモルヒネが入った鎮痛剤を飲み、
重度の便秘が続く煉獄(れんごく)の苦しみ。
時間すら止まったような極限の中で始めた作業ですが、
一日1曲、陽水さんの歌詞世界に深く降り立つことが
次第に心の糧になっていきました。
聴くたびに違う景色が浮かび、
彼の歌声は白なのか黒なのか、明なのか暗なのか、
川のように蛇行したり、螺旋階段になったり、
はたまた突然殴り付けてきたり、
まるで陽水さんが私とダンスをしてくれている気もしました。
20曲でも訳せたらすごいぞ。
たったひとりで自分の病室で、締め切りも発信手段もなく、
ひたすら秘密基地を作る少年のような心持ちで、
歌詞の情景を私の母語である英語に再び描き直していったのです。
(pp.33-34)
そして、ロバート・キャンベルさんによる
50篇の井上陽水英訳詩が生まれた。
「読者へのメッセージ」を引用する。
あまたある陽水さんの名曲から50曲を厳選することは、
なかなか骨の折れる作業でした。
第1章で述べたとおり、私は大病を患い入院することになりました。
そのとき思いたったのが歌詞の英訳です。
当初は手当たり次第に曲を訳していましたが、
徐々に意識して選ぶようになりました。
陽水さんの事務所から送っていただいた30曲ほどの歌詞、
自分がライブなどで聴き気に入った数十曲の歌詞。
病室内にところ狭しと並べてみました。
英語への長旅に耐え得る、船酔いをあまりしなさそうなよい曲を選び、
次から次へ、夜は看護師たちの目を盗んでせっせと訳したものです。
50作が完成してみると、掲載順は自ずと決まりました。
シンプルに発表順がふさわしいと。
読者のみなさんが陽水さんの曲に出会った順でもあるでしょう。
みなさんはこの発表順でもお好きな曲からでも、
ご自由に味わっていただければと思います。
ロバート・キャンベル
(p.180)
対訳になっている原詩、英訳詩は
そのまま英語教材として使ってみたくなる。
NHKラジオ講座でかつて
「英語で読む村上春樹」と題された名講座があった。
キャンベルさん、陽水さんで
ひとつそんな番組をやってくれないかしらね。
どうでしょう、NHK語学番組企画制作チームのみなさん?
- 作者:ロバート キャンベル
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2010/03/27
- メディア: 単行本
- 作者:井上 陽水
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1982/12
- メディア: 文庫