毎日新聞で連載小説で始まると聞いたとき、
タイトルがいいなぁと思った。
又吉直樹『人間』(毎日新聞出版、2019)を読む。
僕が一番好きなのは、この場面だ。
ガールフレンドのカスミを待っていたはずなのに、
主人公・永山のアパートになぜか老婆が訪ねてくる。
老婆はカスミの祖母であると打ち明け、
永山の髪を洗われてもらいたいと遠慮がちに頼む。
永山は言われるままに風呂場に行く。
「カスミとでかけたりするんですか?」
弛緩しほどけた身体におばあさんの言葉が入ってくる。
行きたいんですけどね、と脱力した声で答えると、
おばあさんが笑った。
そこで息をのみ、「カスミ?」と僕が言うと、
老婆の姿が揺れながら変容した。
後頭部に揺れのような感覚をおぼえ、ゆっくりと目を閉じた。
気持ちを落ち着かせて目をあけると、曇った鏡にカスミが映っていた。
「そうだよ」
カスミはシャンプーを流しながら、つぶやくように声をだした。
顔をあげて鏡を見ようとすると口に湯が流れてきた。
もう老婆の姿はどこにもなかった。
カスミがトリートメントを僕の髪の毛に揉み込んでいく。
「おばあさんになってたで」
「うん」
カスミは何事もなかったかのように、湯で髪を洗い流していく。
「おばあちゃんにご飯作ってたからかな」
あどけない声でカスミがつぶやく。
「そうなんや」
「あっ、どこか連れて行ってくれるの?」
なんのことだかわからなかったが、
おばあさんとの会話のことを言っているのだと遅れて気づいた。
「覚えてるんや?」
うつむいているから自分の声が下腹に響く。
「声が聞こえてたよ」
「そっか、どこ行こうかな」
僕がそう言うと、鏡の中のカスミが嬉しそうに笑った。
(pp.149-150)
『火花』(2015)『劇場』(2017)『人間』(2019)。
又吉はデビュー以来2年に1作の割合で長編を発表してきた。
作家としてこれからどんな変容を見せるのか、楽しみだ。
(『火花』『劇場』、文庫で出ています)