遠くの野からかすかに響いてくる音(梅津時比古)

クリッピングから
毎日新聞2021年1月30日朝刊
音のかなたへ「青空に吸い込まれ」
 梅津時比古(特別編集委員


毎月最後の土曜日は、
梅津時比古さんの文章に慰められている。
聞こえていないはずの音楽が
どこかからかすかに聞こえてくる。
その音に耳を傾ける。


  (略)
  おそらくディスタンス(距離)の本質について
  初めて言及した哲学者はニーチェ(1844〜1900年)だろう。
  遠隔作用(actio in distans)という言葉を使い、
  女性と真理について触れている。


  概略としては「女性たちがこの上なく強力に魅惑する働きとは、
  それを遠方において感じさせること、遠隔作用なのだ。
  けれども、そのためには、まず何よりも、遠隔が必要なのだ」
  (「悦(よろこ)ばしき知識」)と、女性を比喩にして真理を語っている。
  (略)


  演奏者が発する音がその場の空気で観衆に受け取られて変容する
  という想像の中に、音楽がある。
  対面する音は何者には代えがたいが、
  その対面も想像があるから生きる。
  遠隔作用によって真理に魅せられる
  とニーチェが書いた意味もそこにあるのだろう。


  北海道に住むバイオリニストからメールをもらった。
  オンラインでの演奏を頼まれて、楽しく参加していたが、
  終わったあと、突然、いたたまれないような気持ちに襲われ、
  雪野原に飛び出し、空に向かってバイオリンを弾いた、とあった。
  かなり人里離れた所に居る彼などは、
  オンラインの恩恵を最大に受けているだろうに。


  青空に吸い込まれてしまって、
  音はほとんど響かなかっただろう。
  でも、どこか離れた場所で、
  遠くの野からかすかに響いてくる音に耳を傾けている人が
  いたかもしれない。


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次回掲載は2月27日(原則として第4土曜日朝刊)。
1月は第5土曜日掲載に変更された。


音のかなたへ (毎日新聞出版)

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神が書いた曲

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