その言語のニュアンスをどうやって自分に取り込んでいけるか(亀山郁夫)

クリッピングから
「kotoba」(集英社クオータリー)2022年秋号
インタビュー 亀山郁夫ロシア文学者)
<翻訳、外国語教育、そして文学の未来>
(文=仲宇佐ゆり 写真=幸田 森 協力=川端 博)



  亀山 私はよく「教養はいちばん価値のある、いちばん安く手に入るブランド品」
     と言っていますが、いまの学生にはほとんど通じません。
     外国語の入り口が文化ではなくコミュニケーションになっているんですね。
     就職に有利という卑近な目的はあっても、
     その地域の文化、あるいは文学を深くきわめていこう
     という学生は少ないんです。


  亀山 外国語を学ぶと開けてくるものがあるんですよ。
     哲学者のシモーヌ・ヴェイユは死ぬ直前に
     サンスクリット語を勉強したといいます。
     大学時代に共感したが挫折したという以外、
     ほとんど縁もない言語です。
     それで宇宙とつながる、みたいなことを書き残している。


     つまり、外国語を学び始めた瞬間に何らかの可能性が生まれて、
     それがどんどん実をつけていく。
     だからドストエフスキーを読みたいからとか、
     商社に入りたいからといった具体的な目的とは結び付けないようにして、
     純粋に外国語を学ぶという無為・無心の営みが
     何を意味するかということを、アピールしようと思っています。
     (略)

                                  (p.115)



  亀山 学ぶ必要があるとか、ないとかという有用性は
     意味をなさなくなり、学びたい人がやる。
     やった人には可能性が生まれる。
     あとは、その言語のニュアンスを
     どうやって自分に取り込んでいけるかです。
     ニュアンスなんて対した問題じゃないと思うかもしれないけど、
     例えば、もしロシア語がわからなかったら、
     私はショスタコーヴィチを好きになっていないし、
     マレーヴィチの絵にも関心を持たなかったと思います。


     言語を学ぶと、その国のすべての芸術に対して関心がわいてきます。
     そして言語を通じて話した経験が、感動の質を高めてくれる。
     だから言語を学んで、現地の空気を吸うことが大事なんです。


  亀山 例えばウオッカは日本でも飲めますが、
     ロシアの乾いた空気の中で飲むウオツカのうまさは別格です。
     バーニャというロシア式サウナに入って、
     スープとひきわりのカーシャという粥(かゆ)、
     黒パンにバター、キャビアでもあれば、さらに味が引き立ちます。
     そこで飲むウオッカって、もうぜんぜん意味が違うんですね。


     そういう現場の空気には、
     自動翻訳(引用者注:亀山は英語翻訳ソフトDeepLを利用)を
     通して得られた何かでは味わえないものがある。
     その空気感は、歴史そのものであるかもしれない。
     そこからショスタコーヴィチの音楽も生まれてきたわけです。
     だから自動翻訳によって何かが失われることはない。
     ただ便利になるだけです。
     使えるならいくらでも使えばいいと思います。
     (略)

                                (p.120)


  *亀山が館長を務める世田谷文学館で収録・撮影。文中敬称略。