NHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」で取り上げられたこともあり、
気になっていた。
奈倉有里(なぐら ゆり)『夕暮れに夜明けの歌を
ー文学を探しにロシアに行く』(イートン・プレス、2021)を読む。
(カバー作品/風能奈々、ブックデザイン/鈴木成一デザイン室)
「1 未知なる恍惚」から引用する。
そんなふうにして基礎だろうと応用だろうと歌だろうと
節操なくロシア語という言語に取り組んで数年が経ったころ、
単語を書き連ねすぎて疲れた手を止めたとき、
突然思いもよらない恍惚とした感覚に襲われて
ぼうっとなったことがある。
なにが起こったのかと当時の私に訊いても、
おそらくまともには答えられなかっただろう。
そのくらい未知の体験だったーー
「私」という存在が感じられないくらいに薄れて、
自分自身という殻から解放されて楽になるような気がして、
その不可思議な多幸感に身を委ねると
ますます「私」は真っ白になっていき、
その空白にはやく新しい言葉を流し入れたくて心がおどる。
ごく幼いころに浮き輪につかまって
海に入ったときのような心もとなさを覚えながら、思うーー
「私」という存在がもう一度生まれていくみたいだ。
いや、思う、というよりは感覚的なもので、
そういう心地がした、というのに近い。
この時期、それから幾度かそんな体験をした。
いま思えばあれは、語学学習のある段階に訪れる
脳の変化からきているのかもしれないーー
言語というものが思考の根本にあるからこそ得られる、
言語学習者の特殊な幸福状態というものがあるのだ。
たぶん。
(pp.9-10)
その後、奈倉はモスクワのロシア国立ゴーリキー文学大学で
生涯の師、アレクセイ・アントーノフ先生に出会う。
やがて、奈倉が東京に戻ることになり、先生は病で亡くなる。
最終章「30 大切な内緒話」から引用する。
私はきっと、いつでもふたたびここへ帰ってくる。
モスクワへ来れば実際に、
そうでないときには心のなかにあるこの場所へ。
そのとき、私の体になにかが起こった。
おなかのあたりがきゅっとして、全身が急に温かくなり、
幸福な感覚が指先まで伝っていくのを感じる。
自分の鼓動が聴こえる。
似た感覚をいつか味わったことがあった。
ああそうだ、ロシア語をやりはじめて数年目のことだ。
でもあのときと違ってはっきりと「温かい」という感覚がある。
そしてなにより、まったく比べものにならないくらい、強い。
そうしてようやく、
先生に出会ってからの「学び」がそれまでとどう違い、
自分の身になにが起きたのかを知った。
それは私にとって、少しずつ生まれ変わることだった。
新しいことを知るたびに、それは単なる知識ではなく、
細胞がひとつひとつ新しくなるような喜びだった。
浮き輪につかまって海に入ったような
かつての心もとない学びではなく、
いくらひとりでいても孤独ではない安心感があったーー
だって、私はひとりではなかった。
(pp.257-258)
巻末「本書に登場する書籍一覧」(pp.268-269)は
奈倉による「ロシア文学入門」の手引きとして役立つ。
第32回紫式部文学賞受賞。
これまで錚々たる女性作家に授賞している。
(奈倉の博士論文。第2回東京大学而立賞受賞)
(奈倉翻訳の作品)