歴史とは何か


混迷の時代には古典が光を指して
行先を暗示してくれることもあるだろう。
E.H.カー著、清水幾太郎訳『歴史とは何か』を読む。
1962年に岩波新書として出版され、現在まで75刷を数える。


歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)


岩波新書創刊70周年記念雑誌「図書」臨時増刊
(2008年11月5日発行;非売品/表紙は宮崎駿。写真下)で
218人の各界知識人に「自身の岩波新書ベスト3」を問うたところ、
8人の推薦があり、第3位にランクされた。
(ちなみに第1位は、14人が推薦した丸山真男『日本の思想』。
第2位は、鶴見良行『バナナと日本人—フィリピン農園と食卓のあいだ』)



『歴史とは何か』から引用する。


  歴史とは歴史家と事実との間の
  相互作用の不断の過程であり、
  現在と過去との間の尽きることを知らぬ
  対話なのであります。(p.40)


  過去は、現在の光に照らして初めて
  私たちに理解出来るものでありますし、
  過去の光に照らして初めて私たちは
  現在をよく理解することが出来るものであります。
  人間に過去の社会を理解させ、
  現在の社会に対する人間の支配力を増大させるのは、
  こうした歴史の二重機能にほかなりません。(p.78)



  けれども、歴史家と物理学者とは、
  説明を求めるという根本の目的でも、
  また、問題を提出し、
  これに答えるという根本の手続でも同じなのです。
  他のすべての科学者もそうですが、
  歴史家も「なぜ」と尋ね続けるところの動物なのです。(p.126)


250ページの新書であるが、内容は決してやわではない。
そもそもこの本は、著者E.H.カーが
1961年1月から3月までケンブリッジ大学で行った連続講演を
書物として同年秋に出版したものの全訳である。
翌1962年3月には岩波新書の第1刷が出版されているから
実にスピーディに世に出た書物だったのだ。
それだけ翻訳を急ぐ内容であると当時判断されたに違いない。



清水幾太郎がこの書を訳すきっかけをつくったのは
岩波書店常務取締役、
雑誌『世界』初代編集長だった吉野源三郎である。
どの道にも少数ではあるが目利きがいて、
そうした先人たちの努力の集積からこうした仕事が生まれる。
そして、その仕事が古典として評価されているのは
必ずしも知識人たちだけの支持でなく、
市井の、無数の、学び考える人たちの支持があったからである。



混迷の時代と人が声高に叫ぶときこそ、
ときにはこうした古典と対話することで
未来の扉を開く鍵が見つかるかもしれないと僕は思うのだ。


清水幾太郎の「はしがき」から引用する。


  われわれの周囲では、
  誰も彼も、現代の新しさを語っている。
  「戦後」、「原子力時代」、「二十世紀後半」……
  しかし、遺憾ながら、現代の新しさを雄弁に説く人々の、
  過去を見る眼が新しくなっていることは極めて稀である。
  過去を見る眼が新しくならない限り、
  現代の新しさは本当に摑めないであろう。
  E・H・カーの歴史哲学は、
  私たちを遠い過去へ連れ戻すのではなく、
  過去を語りながら、現在が未来へ食い込んで行く、
  その尖端に私たちを立たせる。(p.iv)



「戦後」「原子力時代」「二十世紀後半」の代わりに
「百年に一度の金融危機」「自民民主伯仲時代」
オバマ政権下の新・日米関係」などと
ランダムに言葉を置き換えてみたらどうだろう。


僕たちの過去を見る眼は、
はたして新しくなっているだろうか。
僕たちにいま必要なのは、
現在が未来へ食い込んで行く、
その尖端に立っている自覚と、
未来に肯定的な面を発見し、
尖端のさらに先へと飛び込む勇気であると
カーと清水の本は教えてはいないか。


そのとき、その尖端で、
過去と対話し、「歴史とは何か」と考え続ける行為が
ムダであり無力であるとは僕は少しも思わない。


(文中敬称略)