村上春樹『螢・納屋を焼く・その他の短編』(新潮文庫、1987)


この頃、村上春樹の短編に強く惹かれるようになった。
どこに向かうか予測がつかない物語展開と
謎を解ききらない余韻がなんとも心地いい。
村上春樹『螢・納屋を焼く・その他の短編』
(新潮社、1984/1987文庫)を読む。


螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)


   僕は瓶のふたを開け、螢をとり出して、
   三センチばかりつきでた給水塔の縁に置いた。
   螢は自分の置かれた状況がうまく把(つか)めないようだった。


   螢はボルトのまわりをよろめきながら一周したり、
   かさぶたのようにめくれあがったペンキに足をかけたりしていた。
   しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめてから、
   また左に戻った。
   それから時間をかけてボルトの頭の上によじのぼり、
   そこにじっとうずくまった。


   螢はまるで息絶えてしまったみたいに、
   そのままぴくりとも動かなかった。
   僕はてすりにもたれかかったまま、
   そんな螢の姿を眺めていた。


   長いあいだ、我々は動かなかった。
   風だけが、我々のあいだを、川のように流れていった。
   けやきの木が闇の中で無数の葉をこすりあわせた。
   僕はいつまでも待ちつづけた。
                   (「螢」pp.45-46)


螢と僕だけの、ほんの短い時間の、
世界が静止したような描写が
心の深い所にすっと入ってくるようだ。
永遠に時間が続くような最後の四行が
特に印象に残った。



(村上自身が日本の小説家6人の短編を案内した本。未読)