老舗の古書店の棚が似合う本

クリッピングから
朝日新聞2019年9月11日朝刊
天性の自由人 核にはドイツ文学
池内紀さんを悼む
評論家・川本三郎


 「困ったことがあったら夜中でもいいから電話してください」。
  家内を亡くし一人暮らしをしている私に
  そう言って励ましてくれた池内紀さんが逝ってしまった。
  身を切られる思いがする。


  池内さんはもっとも尊敬する物書きであり、
  その飄々(ひょうひょう)とした穏やかな人柄にはいつも心がなごんだ。
  五十五歳のときに東大教授を辞め、
  その後、筆一本で文章を書き続けた池内さんは天性の自由人だった。
  (略)


  さらに最後の書となった『ヒトラーの時代』のなかでは、
  カフカの小説を全訳し、そのあと評伝を書いている時、
  「カフカが愛した姉や妹や恋人がアウシュヴィッツで死んだことを、
  かたときも忘れなかった」と書いている。
  ここにドイツ文学者としての痛み、そして誠実を見る思いがする。


  勤勉でストイックな方だった。
  朝の三時頃にはもう起きて仕事をする。
  以前、一緒に温泉に旅をしたとき、明け方に目を覚まし、
  トイレに立とうとすると、隣の部屋で池内さんが
  黙々と翻訳の仕事をしているのを見て、驚いたことがあった。


  大変な読書家だった。
  だからアンソロジストとしてもいい仕事をされた。
  井上ひさし鶴見俊輔と共に編集に関わった
  『ちくま日本文学全集』はそのひとつ。
  (略)


  昭和十五年生まれ。
  戦後民主主義のなかで育った。
  だから近年の日本のきな臭い状況を危惧されていた。
  ただ直接に政治的発言をする方ではなかった。
  大きな声は嫌った。
  (略)


  読売文学賞を受賞した『恩地孝四郎』のなかで美術家、
  恩地の本についてこう書いている。
 「図書館には似合わない。
  大学の研究室には場違いである。
  老舗の古書店の棚がいい」
  まさに池内紀さんの本がそうだった。
  大切な人が逝ってしまった。
  寂しい。
  (寄稿)


f:id:yukionakayama:20190915114505p:plain
(どなたがお撮りになったのか。池内さんの表情がいいですね)


川本さんの文章を読んで、
池内さんは友人といい関係を持っていたんだなぁ、と想像した。
「なにか困ったことがあったら夜中でもいいから電話してください」
奥さんを亡くして困っているに違いない友人にかける言葉として
これほど具体的で過不足ないものはないだろう。
「夜中でもいいから」と言われただけで、
窮地にいる友人の心はどれほど安らぐか。
お愛想で言える言葉ではない。


池内紀さん最後の著作)
恩地孝四郎―一つの伝記

恩地孝四郎―一つの伝記

戦争よりも本がいい

戦争よりも本がいい

wikipedia:池内紀