「ぎりぎり」を知らない「ほどほど」はただの萎縮(鷲田清一)

クリッピングから
朝日新聞2019年11月28日朝刊
折々のことば(鷲田清一選)第1653回


  足を棒にする


         慣用句


  長いこと歩き回ったり立ちっぱなしでいたりすると、
  足は緩やかなあそびをなくしてがくがくになる。
  つまり限界の合図だ。


  昨今はしかし、人は限界に行き着く前にそれを回避する。
  何ごとも「ほどほど」にしておく。
  けれどもその「ほどほど」は限界を知っていないとわからない。


  「ぎりぎり」を知らない「ほどほど」はただの萎縮。
  限界を知らねば、たくましさも生まれない。


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鷲田さんがこのコラムで慣用句を取り上げるのは珍しい。
よほど言いたいことがあったのだろう。
「ほどほど」と「ぎりぎり」は、
仕事をしているときに僕も現場でよく感じた。


昨今の後輩たちは、
先輩たちが「ほどほど」で過保護にすることがあるため、
「ぎりぎり」を知らずにいるように思える。


しかし、プロフェッショナルの世界で、
「ぎりぎり」を知らずに「ほどほど」だけで乗り切ることは不可能だ。
「ぎりぎり」を体験しないまま20代を過ごしてしまうことは
その後の長いキャリアを考えるとリスクが大きいと僕は思う。


一方若くても、「ぎりぎり」を知りながら、
「ほどほど」のバランスを見つける人もいる。
「ぎりぎり」だけでは早晩燃え尽きることが分かっているのだろう。
長続きするアスリート、アーティストもきっとそうなんだろうな。


濃霧の中の方向感覚

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大事なものは見えにくい (角川ソフィア文庫)

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