松家仁之『光の犬』(新潮社、2017)

松家仁之(まついえ まさし)の文章が好きだ。
『光の犬』(新潮社、2017)を読む。



『泡』『火山のふもとで』『沈むフランシス』に続いて
松家の作品を読むのは四作目になる。
記憶に残った文章をいくつか抜き書きする。


主要登場人物のひとり、子どもの頃から数学が得意で
いまは天文台に勤める新進気鋭の天文学者の女性、
歩(あゆみ)が述懐する場面だ。


  歩はときおり自分がいなかった世界を想像する。
  歩がいない世界はなんの不足もない。
  あらたにひとが生まれ、
  あらたにひとが死んでも世界は変わらない。
  この世に生を亨けて、
  自分をとりかこむ世界を感じていることのほうが、
  はかなく、計量のできない、まぼろしにも近い現象ではないか。


  歩は、ただ暗黒の無音の宇宙を、
  まっすぐに進む星の光について想像をめぐらせる。
  誰の網膜にも届かない、観測もされない光が、
  最後にたどりつくのはどこなのだろう。

                    (p.315)


  歩のからだは土曜日の朝の地球の自転にゆだねられ、
  冷え冷えとする空気と、
  ガラス越しに降りてくる淡く弱い光に包まれていた。
  敷地内に棲むスズメやシジュウカラコゲラの鳴き声が耳にとどく。


  数百億光年かなたの無音の銀河は、
  歩の頭のなかにだけ残っていた。
  それは脳細胞がとどめているただの幻影であり、
  しかも地球が誕生する前の、
  気の遠くなるほど昔の像でしかない。
  その光が地球に到達するまでのあいだに、
  ブラックホールにのみこまれ、
  消えてしまった星も無数にあるはずだ。

                (p.317)


歩の家で飼っていた北海道犬ジロに呼び掛ける言葉。
ジロは家族の誰よりも歩になついていた。


  ジロ。ジロ。
  言うそばからまた涙が流れだす。
  ジロは歩の頬と口を舐めた。
  涙もいっしょくたに。
  いつかわたしが死ねば、
  この気持ちも永遠に消えてなくなる。
  だからジロ、舐めておいて。

             (p.375)