五月の芳しい風は、その露地のなかにも満ちている

クリッピングから
岩波書店PR誌「図書」2022年10月号
「本の栞にぶら下がる」22
物語に吹く風 朝鮮短編小説選
斎藤真理子(さいとう まりこ・翻訳家)



  私が「五月の薫風」
  (引用者注:『朝鮮短編小説選』(岩波文庫1984
  に収録された朴泰遠(パクテウォン)の作品、長璋吉訳)を好きなのは、
  最後の方に
  「五月の芳(かぐわ)しい風は、
  その露地のなかにも満ちている」
  という一文があるためでもある。
  ここを読むたびに、先回も少し触れた
  長璋吉の言語感覚の鋭さを思い出すからだ。


  長のエッセイ集『私の朝鮮語小辞典』には、
  次のような文章がある。
  「広い道路をゼリー状の風が移動するのがみえる。
  書きながら胸がふるえる。
  全く変哲もない通りにすぎないのだが」。


  その通りは、「サムソンビルと支庁の間を
  종로(鐘路)の方へおちる小路」だと説明されている。
  そこは朴泰遠の「五月の薫風」で
  主人公が幸せを感じながら歩いていた、
  1933年の鐘路の露地でもあるのではないか。
  (略)


  この不思議さはまた、長璋吉の周囲にも漂っているようだ。
  長璋吉は1988年に惜しまれながら亡くなったが、
  それから三十年後、建築家でもある個性的な作家、チョン・ジドンが、
  「光はどこからでも来る」という短編小説に長璋吉を登場させたのだ。


  そこでは、『私の朝鮮語小辞典』にちらりと登場した
  大学生の女性が主人公になって、
  不思議な留学生「チョ・ショキチ」の面影を語るのだが、
  この二人をつないでいるのも、
  鐘路の露地から飛び出してくる
  「ゼリーのような、柔らかく冷たい風」なのだ。


  さらにこの女性は
  1970年に開かれた大阪万博の韓国館のコンパニオンとして大阪に行き、
  そこで長璋吉と再会する。
  

  短編「光はどこからでも来る」は、
  2019年に韓国で出版された
  『私たちは他者の記憶で生きるだろう』という短編集に収められている。
  このタイトルもなかなか奥深いものを秘めている。
  (略)