山猫からも葉書がこなくなってしまった(井上ひさし)

クリッピングから
毎日新聞2020年10月10日朝刊「今週の本棚」
湯川豊評(文芸評論家)
『小説をめぐってー井上ひさし 発掘エッセイ・セレクション』
井上ひさし著(岩波書店・2200円)



  亡くなった後も、井上ひさしの本がよく出る。
  これは三冊のシリーズのうちの一冊、
  ユリ夫人が編集に参加しているようだ。
  小説をめぐる短文の集成だが、
  短文ながらすべていまなお新鮮で、心打たれる文章に満ちている。


  たとえば、宮沢賢治注文の多い料理店』文庫本の解説がある。
  そこでは作品についてはほとんど語らずに、
  賢治の好きだった白つめくさ(クローバー)の話になる。


  江戸期の終わりに入ってきたこの西洋の牧草が、
  明治から昭和の二十年代までの、日本の田園風景の基調となった。
  井上の子供時代、山形の田舎でも
  つめくさ絨毯(じゅうたん)は、寝そべると極楽。
  つめくさ絨毯は運動場から水田を経て果樹園に至り、
  つきるところは野原、さらに山の林になる。


  つめくさと山の間にひろがる野原は、
  「人間と動物とが、樹木や草花など植物の立会いの下に、
  対等の資格で出会うところ」だった。
  つめくさは、この交歓の場に至る道しるべだったが、今はそれが姿を消し、
  「山猫からも葉書がこなくなってしまった」と井上は嘆く。


  その場所を探し当てるためにも、
  賢治作品の中につめくさの匂いを嗅ぎ当てなくてはならない、という。
  これはいかなる賢治論にもまさる、といいたくなる一節だ、と私は思った。
  (略)


時折ふと、井上ひさしの文章に帰りたくなることがある。
どこか懐かしい井上ワールドを思い出させてくれた、湯川の書評だった。
また折を見て、訪れてみよう。


注文の多い料理店 (新潮文庫)

注文の多い料理店 (新潮文庫)

井上ひさし短編中編小説集成 第1巻

井上ひさし短編中編小説集成 第1巻

(短編・中編にも心に残る作品がいくつもある)
夜明けの森、夕暮れの谷

夜明けの森、夕暮れの谷

  • 作者:湯川 豊
  • 発売日: 2005/07/14
  • メディア: 単行本


[追記] 2020.10.19


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世田谷文学館
「没後10年 井上ひさし展ー希望へ橋渡しする人」開催中です。
12月6日まで。