クリッピングから
毎日新聞2020年10月10日朝刊「今週の本棚」
湯川豊評(文芸評論家)
『小説をめぐってー井上ひさし 発掘エッセイ・セレクション』
井上ひさし著(岩波書店・2200円)
- 作者:井上 ひさし
- 発売日: 2020/07/11
- メディア: 単行本
亡くなった後も、井上ひさしの本がよく出る。
これは三冊のシリーズのうちの一冊、
ユリ夫人が編集に参加しているようだ。
小説をめぐる短文の集成だが、
短文ながらすべていまなお新鮮で、心打たれる文章に満ちている。
たとえば、宮沢賢治『注文の多い料理店』文庫本の解説がある。
そこでは作品についてはほとんど語らずに、
賢治の好きだった白つめくさ(クローバー)の話になる。
江戸期の終わりに入ってきたこの西洋の牧草が、
明治から昭和の二十年代までの、日本の田園風景の基調となった。
井上の子供時代、山形の田舎でも
つめくさ絨毯(じゅうたん)は、寝そべると極楽。
つめくさ絨毯は運動場から水田を経て果樹園に至り、
つきるところは野原、さらに山の林になる。
つめくさと山の間にひろがる野原は、
「人間と動物とが、樹木や草花など植物の立会いの下に、
対等の資格で出会うところ」だった。
つめくさは、この交歓の場に至る道しるべだったが、今はそれが姿を消し、
「山猫からも葉書がこなくなってしまった」と井上は嘆く。
その場所を探し当てるためにも、
賢治作品の中につめくさの匂いを嗅ぎ当てなくてはならない、という。
これはいかなる賢治論にもまさる、といいたくなる一節だ、と私は思った。
(略)
時折ふと、井上ひさしの文章に帰りたくなることがある。
どこか懐かしい井上ワールドを思い出させてくれた、湯川の書評だった。
また折を見て、訪れてみよう。
- 作者:賢治, 宮沢
- 発売日: 1990/05/29
- メディア: 文庫
- 作者:井上 ひさし
- 発売日: 2014/10/09
- メディア: 単行本
- 作者:湯川 豊
- 発売日: 2005/07/14
- メディア: 単行本
[追記] 2020.10.19