佐藤優『よみがえる戦略的思考ーウクライナ戦争で見る「動的体系」』
(朝日選書、2022)に続いて連読する。
高坂正堯(こうさか まさたか)『国際政治ー恐怖と希望』
(中公新書、1966/改版 2017)。
「序章 問題への視角 II 国際政治の三つのレベル」の
「善玉・悪玉説」から引用する。
平和の問題に対する人びとの態度は、
あまりに単純なものでありつづけてきた。
おそらくその第一の理由は、
われわれの知的な怠惰に求められるかもしれない。
戦争の原因をある特定の勢力に求め、
それを除去することによって平和が得られるという
善玉・悪玉的な考え方は、
われわれ人間が行動力には勤勉でも、
知的には怠惰な存在であることに原因している。
昔から、困難な状況に直面したときの人間の態度は、
いつも判で押したように同じであった。
そんなとき人間は、いつも非難すべき悪い人間や悪いものを見出して、
それを血祭りにあげてきたのである。
そしてそれは、二重の意味で人間の知的労働を省いてきた。
まず、それは単純明快であった。
つぎにそれは、普通の人びとのほうはなにも変化しなくてもよく、
それまでどおりの生活をつづけることを可能にするものであった。
もちろん、このような思考法で問題を解決することはできない。
しかし悪役を除去する必要が、人間の闘争心を駆りたて、
人間を行動的に勤勉にさせた。
しばしば、悪玉と善玉のあいだに闘争がおこなわれた。
そして、闘争というものは人間を酔わせるものである。
闘争のあとで人間は、問題が解決されたと思うことができる。
それに闘争は、社会をゆさぶることによって、
じじつ少しは問題を解決するのである。
(pp.14-15)
(著作集・全8巻)