ゆっくりやれー

クリッピングから
毎日新聞2023年1月16日朝刊
読者投稿欄「女の気持ち」
ゆっくりやれー


  介護施設に暮らす母とは
  感染予防のためリモートで面会をしている。
  多くの思い出をともに振り返るひとときは、
  かけがえのないものである。
  ある日の面会で、母が発した第一声は
  「夕べ、夢に出てきたんだ」だった。


  「何が出てきたの」と尋ねると
  「父ちゃんと母ちゃん」と張りのある声で答えた。
  母の思い出は、私が生まれる前までさかのぼっていた。
  「何か言っていた?」と聞くと
  「ゆっくりやれー、って」と母は答えた。


  5人姉妹の末っ子の母は、
  姉たちに追いつこうと焦るような行動をし、
  両親に「ゆっくりやれー」と言われていたのだろう。
  (略)


  私が「父ちゃん、母ちゃんと話ができてよかったね」と言うと、
  母の表情は見る間に無邪気で愛くるしい幼女のようになった。
  さらに母は「不思議だ。死んでいく人(母)と生きている人(私)が
  こうして話をしているんだから、何だか夢のようだ」と続けた。


  私をこの世に産み落としてくれた母は、
  命が連続することを実感したかのようである。
  (略)

          東京都中野区 樋口まち子 非常勤講師・66歳