宮崎市定『中国に学ぶ』(1971/1986文庫版)


宮崎市定『中国に学ぶ』を読む。
「あとがき」にこうある。


   中国を学ぶことは、中国に学ぶことに終わる。
   ただし中国に学ぶとは、
   何もかもすべてを肯定することではない。
   学ぶためにはまず批判することが必要だ。
   (中略)
   私が中国から学んだ若干の事物のうち、
   最後まで心の底に残るのは、
   長い目で物を見ること、表面ばかりでなく
   必ず裏面の存在を考えること、等の数端を最とする。
   しかもこれを能くすることは、
   何人にとってもはなはだ難い。
                            (p.339)



今年7月以降に上海、北京、瀋陽を仕事で訪れた。
特に東北随一の都市、瀋陽で街を散策し人を観察しながら
ここには計り知れない巨大な謎が横たわっていると感じた。
瀋陽はかつての奉天であり、日本の歴史とも密接にからまっている。


街には当たり前のように吉野屋がありUniqloがあり地元の人で賑わう。
表面ばかり見ていれば中国に学ぶことはできないと思った。
『アジア史概説』『中国史(上・下)』に続いて本書を読んだのは、
長い目で物を見、裏面の存在を考える力を養いたかったからだ。



「はしがき」の最後の一文に苦笑した。


   世は白眼視しながらでも渡って行けるという余の発明からし
   どうやら中国に学んだ結果であるらしい。
                         (p.12)


軍部、官公庁、学会、マスコミなど、
そのときそのときの大勢、権力に安易に乗らなかった
硬骨の碩学に僕は惹かれる。


(文中敬称略)