村上春樹「猫を棄てる—父親について語るときに僕の語ること」(2019)

スクラップブックから
朝日新聞2019年5月10日朝刊
村上春樹さん、父の従軍記す
部隊が捕虜処刑 「幼い心に強烈」


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   作家の村上春樹さん(70)が、
   父・千秋さんの中国大陸での従軍経験についてエッセーをつづり、
   10日発売の月刊総合誌文芸春秋」6月号に寄せている。
   村上さんが自身の父を語ることはほとんどなかった。
   その戦争体験は小説にも投影されている。
   (略)


   村上さんの父・千秋さんは1917年に京都の寺の次男として生まれ、
   在学中だった38年、20歳で第16師団輜重(しちょう)兵
   第16連隊に入営した。
   村上さんが小学生の頃、
   所属した部隊が中国で捕虜を処刑したと、
   一度だけ父から打ち明けられたことがあったという。
   (略)


   作家となって以降、父との関係は「より屈折したもの」となり、
   「二十年以上まったく顔を合わせなかった」。
   千秋さんが2008年に亡くなる少し前に
   「和解のようなこと」を行ったと村上さんは書く。
   父の軍歴を調べるために5年ほどかかり、
   「僕は父親に関係するいろんな人に会い、
   彼についての話を少しずつ聞くようになった」という。


   17年の長編小説「騎士団長殺し」では、
   父の回想をなぞるような戦争体験を、ある登場人物に語らせた。
   戦争や暴力への対峙(たいじ)は、
   村上さんの作品において重要なテーマであり続けている。
                       (中村真理子

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近所のK図書館で「文藝春秋」2019年6月号を借り、
さっそく読んでみた(最新号は館内閲覧のみ可能)。
タイトルは、「猫を棄てる—父親について語るときに僕の語ること」。
猫のエピソードふたつを使いながら、村上は筆を進めていく。


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   こういう個人的な文章がどれだけ一般読者の関心を惹くものなのか、
   僕にはわからない。
   しかし僕は手を動かして、実際に文章を書くことを通してしか
   ものを考えることのできないタイプの人間なので
   (抽象的に観念的に思索することが生来不得手なのだ)、
   こうして記憶を辿り、過去を眺望し、それを目に見える言葉に、
   声を出して読める文章に置き換えていく必要がある。


   そしてこうした文章を書けば書くほど、
   それを読み返せば読み返すほど、
   自分自身が透明になっていっくような、
   不思議な感覚に襲われることになる。
   手を宙にかざしてみると、
   向こう側が微かに透けて見えるような気がしてくるほどだ。
                          (p.265)


   言い換えれば我々は、
   広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。
   固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。
   しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。
   一滴の雨水があり、それを受け継いでいく(原文傍点コンマ)
   という一滴の雨水の責務がある。
   我々はそれを忘れてはならないだろう。


   たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、
   集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。
   いや、むしろこう言うべきなのだろう。
   それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ(原文傍点コンマ)、と。
                            (p.267)


さほど長いエッセイではないが、
村上は父の軍歴を調べるため関係者へのインタビュー含め5年かけている。
自分の記憶だけで書ける内容ではない。
朝日・中村真理子記者の文芸署名記事は
周辺事実(父をめったに語らない、最新長編との関連など)まで書き込んでいて
一読者として参考になる。
他紙と比べるとその違いがよく分かる。


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(同日讀賣記事は、「文藝春秋」からの引用でほぼすべて構成。
この記事独自のプラスαの価値がなかった)


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