『文藝春秋』2023年1月号掲載の鼎談が面白かった。
新書化を待っていた一冊。
エマニュエル・トッド/片山杜秀/佐藤優
『トッド人類史入門 西洋の没落』(文春新書、2023)を読む。
「はじめにーー思想の地下水脈」(佐藤優)から引用する。
思想には地下水脈があるように思えてならない。
まったく別の文化圏で、別の専門分野を研究していても、
地面を掘り下げていくうちに共通の地下水脈に至ることがある。
このような地下水脈に至る力がある本を古典と読む。
トッド氏は、現存の知識人であるが、
その著作は時代をとらえるために不可欠な古典になっているのである。
(略)
本書の目的は、トッド氏のテキストを題材にして、
読者に地下水脈に辿(たど)り着く道案内をすることだ。
率直に言って、『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』を
読破するのは難しい。
(略)
トッド氏の『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』は、
まさに先行思想のさまざまな型を踏まえた上で、
型破りの作品になっている。
だからトッド氏の思考はどのような先行思考の型を踏まえているか、
特にそれが日本との文脈で持つ意味について
道案内する書籍が必要と私は考えた。
この構想を慶應義塾大学法学部の片山杜秀教授に話すと賛同してくださり、
この本ができることとなった。
(pp.3-5)
「おわりにーー生きた類型学」(片山杜秀)から引用する。
すると諸国、諸民族の「特殊性」とはどう解しうるのか。
資本主義と社会主義ではいかにも粗(あら)い。
アジア的専制と西欧的民主主義とか、近代と前近代とかの、
価値の優劣を前提とした物差しでは、
この複雑怪奇な世界情勢を、ますます派手に見誤りかねない。
もっと普遍的で汎用的で中立的で巧緻にして精妙で、
歴史の長いスパンにも短いスパンにも使える物差しが必要なのだ。
時間と空間、歴史と風土に応用できる、根本的なのに細密で、
観念や抽象に決して陥らない、
マックス・ヴェーバーも驚く、生きた類型学だ。
そんな都合の良いものが現代にありうるのか。
たとえばトッド氏の学問がそれであろう。
人間が生き物として種を保とうとするかぎり、
原始だろうが未来だろうが、
生殖と養育は必ずなんらかのかたちで根幹にあり続け、
そこには必然的に家族形態が伴う。
また人間が社会的生物であるかぎり、
ある種の文化に支えられた人々の集まりの全体規模が常に問題となる。
トッド氏は家族類型学と人口学の最新の知見を見通し、読み破り、
そこに歴史と風土と宗教を絡めて、千変万化な事象を説明しようとする、
まさにマクロとミクロを兼ねようとする新しい学問である。
(pp.206-207)
編集:西泰志(文春新書編集部)