他者と共存できるほどに「いい加減」でいる


スクラップブックから
朝日新聞2018年7月10日朝刊
寄稿 高村薫(作家)
精神世界 無関心な私たち
オウム事件 言葉にする努力を放棄



7月6日、教団・オウム真理教の元教祖松本智津夫ほか
6名の幹部の死刑が執行された。


   しかしながら、どんなに異様でも、
   オウム真理教は紛れもなく宗教である。
   それがたまたま俗世の事情で犯罪集団と化したのか、
   それとも教義と信仰に導かれた宗教の犯罪だったのかは、
   まさにオウム事件の核心部分であったのに、
   司法も国民もそこを迂回(うかい)してしまったのである。
   (略)


   それでも、いつの世も人間は
   生きづらさを和らげる方便としての信仰を求めることを
   止(や)めはしない。
   オウム真理教が私たちに教えているのは、
   非社会的・非理性的存在としての人間と宗教を、
   社会に正しく配置することの不断の努力の必要である。


人間が信仰を求めるのは
生きづらさを和らげる方便だと高村は指摘している。
だとすれば、どれほど非合理的であろうと、
他人の目には滑稽に映ろうと
方便が幅広く許容されている社会の方が
よほど住みやすいだろう。


「正しいこと」はとても恐ろしく、
他者と共存できる程度に「いい加減」でいられることは
人間にとって案外必要な素養であるように思える。
高村の論調は「正しく」聞こえるのだが、
心の深い所に届かない正論として僕には響いてしまった。
なぜだろうか。


アンダーグラウンド (講談社文庫)

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(1995年地下鉄サリン事件の深層に迫る、村上春樹の価値ある仕事)