手嶋龍一・佐藤優『公安調査庁—情報コミュニティの新たな地殻変動』
(中公新書ラクレ、2020)にこんな一節があった。
手嶋 金正男の「東京の四日間」(引用者注:2001年5月1日、
日本に不法入国しようとして成田空港で拘束。北京に強制送還された事件)。
当時の日本外交とインテリジェンスを語るうえで極めて興味深いものでした。
さて、本題はここからです。
金正男氏は、明敏な入国管理官にいきなりパスポートの偽造を見破られ、
拘束されたわけではありません。
日本の当局は、その男がシンガポールから日航機で成田に到着することを
事前に知らされていたのです。
この極秘情報は、警備・公安警察でも、外務省でもなく、公安調査庁が握っていた。
佐藤 そのいきさつは、手嶋さんのインテリジェンス小説『ウルトラ・ダラー』
(新潮文庫)に詳しく出てきます。
金正男が成田に降り立つ数時間前、
霞が関の法務省合同庁舎7階にある公安調査庁調査第二部第一課に
一本の電話がかかってきた。
シンガポールのチャンギ国際空港から、
現地時間の午前8時発日本航空712便で、『疑惑の人物』が成田に向かって出発した。
パン・シオン名義のパスポートを携えたその人物は、
わが方の調査によれば、北朝鮮の金正日総書記の長男、金正男氏と見られると。
手嶋 眼をかっと見開いた佐藤優さんに言われると
尋問されているような気持ちになります(笑)。
これはインテリジェンスという形容詞はついていても「小説」です。
佐藤 でも、初版の帯には「これを小説だと言っているのは著者だけだ!」
と謳(うた)われていましたよ。(笑)
手嶋 それは版元の編集者が著者に断りもなく勝手に書いたんです。
佐藤 肝の部分は極めて正確です。
金正男に関する情報が、入管当局に伝わったからこそ、
不法入国を水際で阻むことができた。
公安調査庁が極秘情報を摑んでいなければ、
まんまと入国を果たしていたはずです。
(pp.30-31)
二人のやりとりに好奇心をそそられ、
手嶋龍一『ウルトラ・ダラー』(新潮文庫2007/単行本2006)を連読する。
- 作者:龍一, 手嶋
- 発売日: 2007/12/01
- メディア: 文庫
表4紹介文を引用する。
1968年、東京、若き彫刻職人が失踪した。
それが全ての始まりだった。
2002年、ダブリン、新種の偽百ドル札が発見される。
巧緻を極めた紙幣は「ウルトラ・ダラー」と呼ばれることになった。
英国情報部員スティーブン・ブラッドレーは、
大いなる謎を追い、世界を駆けめぐる。
ハイテク企業の罠、熾烈な情報戦、そして日本外交の暗闇……。
わが国に初めて誕生した、インテリジェンス小説。
物語の展開が予想を裏切る。
細部の描写が公開された事実と著者が入手した極秘情報に裏付けられている。
博識の、ときに詩情ある文体。
「わが国に初めて誕生した、インテリジェンス小説」は
版元の誇大表現ではなかった。
文庫では佐藤優が読み応えのある解説を執筆している。
一部引用する。
現役外交官時代に、仕事の関係で、
評者は、手嶋氏と何回か交錯したことがある。
利害を共通にしたこともあれば、対立したこともある。
記憶の糸をたどっていくと、お互いに少し悪い目付きで
睨(にら)み合ったことも何回かある。
しかし、利害が対立した場合も
評者は手嶋氏に畏敬(いけい)の念を抱いていた。
それは、手嶋氏がインテリジェンスの基本的な掟(おきて)に忠実だからである。
この掟は二条からなっている。
第一条 積極的な嘘(うそ)を言ってはいけない
(裏返して言うならば、真実をすべて語る必要はないということである)。
第二条 約束を守る(これも裏返して言うならば、履行できないことを軽々に
約束してはいけないということだ)。
手嶋氏は、この二条を原理主義者のように遵守(じゅんしゅ)する。
それだから、本書を書くために不可欠のデータを、
国際的なインテリジェンス・ネットワークから得ることができたのだと思う。
(p.440)
作家としての手嶋龍一の才能に目を見張った。
続篇『スギハラ・サバイバル』(旧題『スギハラ・ダラー』)も読んでみたい。
手嶋・佐藤にはインテリジェンスに関する共著が4冊出版されている。
二人の情報・洞察が満載されている。
- 作者:手嶋 龍一
- 発売日: 2012/07/28
- メディア: 文庫