裾野からピラミッドを造る方法で英語を学ぶ

クリッピングから
朝日新聞2021年8月14日朝刊
連載小説「また会う日まで」(池澤夏樹・作/影山徹・画)


作者の池澤さんは
数ヵ国語を使いこなす語学の達人である。
その極意を掴むヒントを
連載小説の一節に見つけた。


  戦争の日常 14

  海軍兵学校の校長になった井上成美(しげよし)さんが
  生徒に英和辞典でなく英英辞典を配ったという話に
  わたしは感銘を受けた。
  英語という言葉によって表現される世界のぜんたいを
  学ばせようというのだ。


  英語の教科書の一ページに
  aircraftという言葉が出てきたとする。
  英和辞典を引けばすぐにも「航空機」という訳語が出てくる。
  生徒はそれでわかったつもりになる。
  英語と日本語の単語はすべて一対一で対応している
  と信じてしまう。
  時間も掛からない。


  しかし英英辞典だと——

  A vehicle or machine that is able to fly
  by gaining support from the air

  というような説明が出てくる。
  知らない言葉がいくつもある。
  鍵になっていそうな単語を選んでまた辞書を引く。
  更にわからない単語。
  また辞書を引く。
  次から次へと辿(たど)る。


  なんとか「航空機」という意味に至るまでに
  英和辞典の百倍の時間と労力を要するだろう。
  そしてその余計な努力の分だけ
  英語という言葉と文化を
  根幹から身につけることができるのだ。


  言ってみれば、正しい語義に至るのに
  頂点へ伸ばした梯子(はしご)を使うのではなく
  裾野からピラミッドを造るような方法。


  aircraftはまだ具体物だから始末がいい。
  抽象的な言葉となると
  その本義を捉えるのは容易ではない。
  万事を英と和の単語の対応で済ませようという
  安直な官僚向きの考えかたを排する。
  ものごとは効率ではない。
  言葉の裏には実質と本質がある。
  (略)


  自分自身を生まれ育った狭い領域から
  解放してくれるもの。
  それが語学であり、科学であり、信仰である。


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