抜粋:都甲幸治『狂喜の読み屋』(共和国、2014)

10月のEテレ「100分de名著/ヘミングウェイ・スペシャル」を見て
案内役を務めた著者に興味を持った。
都甲幸治『狂喜の読み屋』(共和国、2014)を読む。



「遅い読書 まえがきにかえて」から引用する。


  けれども、よくわからないまま数百時間かけて
  外国語で一冊の本を読むうちに、
  それまで経験のないことが起こり始めた。
  句読点の打ち方や言葉の選び方、音の響きなどを通じて、
  書き手の息遣いや思考の癖までもが僕に乗り移ってきたのである。


  それは、話す言葉も違う、会ったことがない、
  理解もできない人と一カ月間同居するのに似ていた。
  いや、それ以上に親密かもしれない。
  言葉は思考そのものだから、他人の思考が僕の脳内に無理やり入り込み、
  僕の身体を使って暮らし始めるのだ。


  奇妙な体験だった。
  今まで僕がやっていたのが速い読書だとしたら、
  これは遅い読書とでも言おうか。
  一度身体がテクストと共振を始めたら、
  その体験を日本語で掴むのは至難の業となる。
  テクストのなかで香っている匂いや、響く音、
  感じる風を表わす言葉はすぐに日本語にはならない。


  でも僕が感じているものは、
  単純に英語で起こっているわけでもない。
  いわゆる論理的な言語が織りなすものよりも、
  もっと重層的でリアルな出来事だからだ。


  ヴァルター・ベンヤミン
  「翻訳者の使命」という論文で述べている。
  「多言語のなかに呪縛されていたあの純粋言語を自身の言語の
  なかで解き放つこと」(野村修訳)こそが翻訳者の使命である、と。

                       (pp.013-014)


  最初に作品を終わりまで通して読む。
  そしてゆっくりと辞書を引き始める。
  もちろんわからない事項を調べたりはするが、
  肝心なのはそんなことじゃない。


  一単語ずつきちんと読みながら、
  明瞭にイメージできないものがあると辞書を引く。
  わかっているはずの単語でも、ときに英英辞典を何冊も参照して、
  英語の網目の中でこれはどの位置にくるのかを
  納得するまでしっかりと調べる。


  ぼんやりとではなく、イメージの角が明瞭に立ち上がってきたら、
  そこで始めて英和辞典を引く。
  それでも、載っている訳語には頼らない。
  英和辞典はジョン万次郎以降、
  日本人が英語を前にしてどう置き換えたらいいのかを、
  一世紀半のあいだ苦闘してきた歴史の堆積物である。
  

  ということは、
  以前他の人が読んだ英文にはその訳語は使えるけれども、
  今僕の目の前にある作品には使えないということだ。
  この文脈のこの言葉、というのはすべて、
  僕が生涯に一度しか出会わない出来事なのだから。


  今度は日本語との苦闘が始まる。
  いったん身体イメージとして掴んだものを、
  この訳語でちゃんと表わせるのか。
  A3に拡大コピーしたテクストが
  どんどんと赤い書き込みで埋まっていく。


  国語辞典を引く。
  類語辞典を引く。
  でもやっぱり、辞書から持ってきたものは死んだ言葉でしかない。
  参考になる情報を集めきると、
  次はテクストそのものに飛びこむ瞬間がくる。


  原文のうねりを掴んで見失わないように、
  原文の意味を損なわないように、
  本当に細い道を辿って日本語で作品を書いていく。
  それは一度英語で創作された作品を、
  日本語で再び創作する、という不思議な行為だ。


  そこに現われるのは、
  原文でもない、調べ尽くした辞書の日本語でもない、
  かといって僕自身の表現とも違う、
  いままで誰も見たことのないテクストである。
  もとのテクストに忠実に、という面では実に窮屈なはずなのに、
  うまく行っているときにはその窮屈さが感じられない。
  むしろ気分はこのうえなく自由だ。

                     (pp.015-016)



以前務めていた会社の社内報で
「セカイメガネ」という連載を持っていた。
世界各都市で仕事をしている、さまざまな国籍の同僚たちに
「最近自分が発見したもの・こと」というテーマで英文を書いてもらい、
僕が日本語訳を担当していた。
(並行して社外スタッフに翻訳を依頼。
参照するのでなく誤訳確認・防止のため)


そのとき、英文原稿の中身に自分が深く深く入り込んでいくと、
僕の手を通じて、書き手の存在が脳に棲みつくような体験をした。
その人であるような、僕であるような、
でもそのどちらでもない書き手が
読み解いた中身を日本語でアウトプットしている。
仕上がった原稿は、原文をほぼ正確に翻訳したプロの訳文とは
いつもまったく異なるものになっていた。


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