抜粋:伊藤亜紗『記憶する体』(春秋社、2019)

「アシタノカレッジ」(TBSラジオ)金曜パーソナリティ
武田砂鉄とのやりとりを聴いて著書に興味を持った。
伊藤亜紗『記憶する体』(春秋社、2019)を読む。



「プロローグ:究極のローカル・ルール」から引用する。


  重要なのは、そうだとしてもやはり、法則は必要だ、ということです。
  いかに他人から見れば不合理な内容だったとしても、
  私たちは、自分の体とつきあうために、
  さまざま法則を見出さずには生きていけません。


  体は完全には自分の思い通りにならない対象です。
  落ち着かなきゃと思えば思うほど緊張したり、
  睡眠不足なのに目が冴えて眠れなかったりする。
  そんなコントロールしきれない相手と
  それでも何とかつきあおうとするためには、
  仮のものであったとしても、
  なんらかの法則を見出して対処するしかありません。

                      (p.5)


「エピローグ:身体の考古学」からも引用する。


  ある人の体は、
  その人がその体とともに過ごした時間によって作られています。
  与えられた条件のなかで、この体とうまくやるにはどうすればいいのか。
  そんな「この体とつきあうノウハウ」こそが、
  その人の感じ方や考え方とダイレクトに結びついています。


  だとすれば、魔法の薬によって、
  一瞬で障害が消えるとしたらどうでしょう。
  確かにわずらわしさから解放されるのかもしれない。
  けれどもそれは、その体とともに生きてきた時間を
  リセットすることになる。
  それは限りなく、自分の体を否定することと同義です。

                      (p.270)


  体の記憶は、たらいに雨水が溜まるように、
  自動的に蓄積されていくものではありません。
  もちろん体には、思い通りにならない、
  まさに雨のようにただ黙って眺めるしかない部分もあります。
  障害の状態が変化したり、病気にかかったりするプロセスは、
  多かれ少なかれそうしたものです。


  けれども、私たちは同時に、
  自分の体に対して介入することもできます。
  試行錯誤の末に何かの工夫を見つけることもあるでしょうし、
  他の誰かの力を借りて自分の体の可能性を発掘することもあるでしょう。


  つまり、体の記憶とは、二つの作用が絡み合ってできるものなのです。
  一つは、ただ黙って眺めるしかない「自然」の作用の結果としての側面。
  もう一つは、意識的な介入によってもたらされる
  「人為」の結果としての側面です。

                            (p.271)


                (初出:春秋社ウェブマガジン、2017-19)




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