池澤夏樹評:多和田葉子『白鶴亮翅』(朝日新聞出版、2023)

クリッピングから
毎日新聞2023年6月26日朝刊
「今週の本棚」池澤夏樹評(作家)
『白鶴亮翅』多和田葉子著(朝日新聞出版・1980円)
話題のゆるやかな推移 太極拳のごとく



  はっかくりょうし、と読む。
  白い鶴が翼を広げた姿で、太極拳二十四式の型の一つ。
  一ページ目で状況がわかる。
  「ある日のこと、外に出ようと家のドアをあけると……」、
  だから主人公の一人語りで進む話。
  そこに立っていた隣人のMさんが
  「ヤー(はい)ともナイン(いいえ)とも答えないので」というので、
  これがドイツ語圏の話らしいと知れる。
  ロシア語ならばダーとニェット、フランス語ならウィとノン、
  ギリシア語ならばネーとオーヒ……


  やがて、今のベルリンに住む日本人の女性が語る日常の話で、
  彼女の名はミサないし美砂ということが明らかになる。
  派手な恋愛も大冒険もないまま、
  隣人と友人との行き来だけで長編小説が書けるかと疑うと、
  これが無類におもしろい。
  読み始めるとずぶずぶとはまってしまう。


  その理由の第一は登場する人々の出自の多様性にある。
  極端に自閉的な国家である日本と異なって、
  今のベルリンの住民たちはここ数十年の歴史だけでも
  陸続きの各地・各国と繋(つな)がっている。
  (略)


  友人のパウラは父がボリビア出身、
  パートナーのロベルトは母がアルゼンチン出身
  後に登場するアリョーナという派手で富裕な女性はロシア人。
  彼らの人々を繋ぐのが太極拳学校で、
  経営するチェン先生という女性は
  どうやら中国東北部長春(旧満洲国の新京)の生まれらしい。
  (略)



池澤さんの書評を読んでいるだけで
物語にぐんぐん引き込まれていく感覚を味わう。
ベルリンも太極拳も自分にとって身近だから
とても気になる一冊。