失いしわが日と木の葉とじこめながら(寺山修司)

俵万智『短歌をよむ』(岩波新書、1993)を読む。



    さよふくるままにみぎはやこほるらむ
    遠ざかりゆく志賀の浦波 

          快覚(『後拾遺集』冬)


  志賀の浦は、琵琶湖の湖岸で、現在の大津市があるところ。
  夜が更けるにしたがって、
  水際はだんだん凍ってゆくのだろうか、と作者は思う。
  なぜなら、湖岸に打ち寄せる波の音が、
  しだいに遠ざかってゆくから……。


  波の音以外は何も聞こえないほど、
  しーんと静まりかえっていなければ、
  そして、その微妙な変化を聞きわけるほど、
  作者の精神が研ぎ澄まされていなければ、
  とても生まれない歌である。


  現実には風景は見えず、音のみのはずなのだが、
  読んでいるうちに、
  冷たく暗く森閑とした風景が頭の中に描き出されてくる。
  それはたぶん、作者の心象風景でもあるのだろう。
  (略)


  同じ快覚の歌を本歌としていると思われる作品が、
  現代短歌にもあるので、くらべてみよう。


    湖凍りつつある音よ
    失いしわが日と木の葉とじこめながら 

                 寺山修司


  湖岸から次第に凍ってゆく湖の様子を、
  耳で捉えているという設定は、まさしく快覚の歌の世界である。
  そしてこの作品の個性は、本歌にあった心象風景的な要素が、
  さらに色濃く表現されている点だろう。


  また、湖が凍るということは、
  湖という巨大な器に蓋がされるということなのだ、
  という視点も、新しく取りこまれている。
  表面を氷に覆われてゆく湖。
  その下には、「失いしわが日と木の葉」がとじこめられつつあるのだ、
  と作者は感じている。


  湖の底に沈んでいるものといえば、
  木の葉のほうは誰もが思いつくことだろう。
  「失いしわが日」が、それと並べられることによって、
  いっきに象徴的な風景となっている。
  古歌をふまえながら、すぐれて現代的な一首だ。


  が、この発想は、そもそも快覚の歌からの挑発があって
  生まれたものではないかと、私は思う。
  つまり、
  「さよふくるままにみぎはやこほるらむ遠ざかりゆく志賀の浦波」
  の歌に出会ったとき、作者は「見つけた」と思ったのではないだろうか。


  長いあいだ行方不明になっていた、わが失いし日々。
  それらはきっと、こんな冷たく暗い湖の底に、
  とじこめられているにちがいない……。
  そこで、「湖凍りつつある音よ……」の一首が生まれた。
  ここには、本歌取りという手法の、ひとつの理想的な姿がある。

                           (pp.71-73)


                   編集:川上隆志岩波書店