石牟礼道子「生死(しょうじ)の奥から」(2010)


池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 III-04
石牟礼道子苦海浄土』をK図書館から借りてきた。


苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)


「生死(しょうじ)の奥から
—世界文学全集版あとがきにかえて」から引用する。


   わたしの地方では、魂が遊びに出て一向に戻らぬ者のことを
   「高漂浪(たかざれき)の癖のひっついた」とか
   「遠標浪(とおざれき)のひっついた」という。
   (略)


   幼い頃、わたしも野中道で村の老婆にこう言われた。
   「うーん、この子は……魂のおろついとる。
   高漂浪するかもしれんねえ」
   母はいたく心配した。
   自分の魂の方がおろおろする人だったからである。
   ご託宣は的中した。


   本作品を手放したあと、
   わたしはもとの地上に戻りつけなかった気がする。
   パーキンソンというへんてこな病気と
   道連れになったしまったからである。


   足許がふわふわして、五年ばかり着地感がなかった。
   今日倒れるか明日倒れるかと思う毎日だったが、
   雲のすき間から足を踏み外したようなぐあいに転倒したのは、
   去年の七月末だった。
   (略)


   人心地つくまでに、
   えもいわれぬ玄妙な音色を出している千古の森に連れて行かれた。
   そこは海辺で、森全体を演奏しているのは
   海面から来る風であるらしい。
   指揮しているのは、
   落ちていくわたしから飛び去った鳥だか蝶だかが抱いている、
   元祖細胞に思えた。


   森と風と波の調べは単純な弦楽器のようでもあり、
   全山の葉っぱたちが一斉にふるえるときは、
   生類の祖(おや)たちが、
   名もない神々から産まれる場面のようにも聞こえた。
   まるまる三ヶ月ぐらいの記憶喪失と引きかえに、
   音楽の始原の中で癒やされていたのかもしれない。
   (略)


   すべての楽章が退いていって、
   ややはっきり目覚めかけた意識に見えたのは、
   現世の渚であった。


   野生の猫の仔が首をかしげながら片手をのばし、
   丸い小さな巻貝をころがして遊んでいる。
   わたしは、その巻貝たちといっしょにアコウの枝先に並んで、
   潮と森の香りに包まれていた。


   アコウとは、潮を吸って生きている樹木の一種である。
   巻貝たちが身じろぎはじめた。
   波の中に降りて眠るのだろう。
   安らかな大地の呼吸が聞こえる。
   陽が射してくれば地表は草の露で荘厳されることだろう。
   (以下略)


           二〇一〇年十一月三日
                      石牟礼道子
                        (pp.754-756)


魂の秘境から

魂の秘境から


遺作となった朝日新聞連載エッセイ『魂の秘境から』を読むまで
うかつにも、石牟礼がこれほど詩的で美しい文章を書く作家と
気づかなかった。


高校生のとき水俣病の実態を知り、
支援者たちの機関誌を取り寄せ読んでいた。
そのグループの象徴でもあった石牟礼は、
当時の僕には、政府や大企業の仕打ちに抗議する作家とだけ見えていた。
文章の美しさ、だからこそ心の深い部分に届いたはずのメッセージを
うっかり聞きのがしていた。


苦海浄土』を世界文学全集に収める決断をした池澤夏樹
巻末解説「不知火海の古代と近代」でこう書いている。


   結局のところ、『苦海浄土』を読むというのは、
   病気と会社・社会に否応なく突き動かされる
   患者たちの蹣跚(まんさん)たる足取りを
   石牟礼道子が一歩遅れて辿り、
   その歩みをまた読者が追う一種の巡礼行なのではないか。
                         (p.769)


藤原書店が全17巻の全集を出版。本書もこの全集が底本)