島田雅彦『君が異端だった頃』(集英社、2019)

2020年10月「100分de名著」の谷崎潤一郎4作品講義
とてもチャーミングだった。
島田雅彦『君が異端だった頃』(集英社、2019)を連読する。


君が異端だった頃

君が異端だった頃

(文字だけで構成した水戸部功の装幀が目を引く)


  八五年から八六年にかけて、
  『僕は模造人間』、『ドンナ・アンナ』、『未確認尾行物体』が
  相次いで芥川賞候補になったが、
  いずれも受賞作なしという最悪の結果を突きつけられた。
  トータル六回候補に挙げられながら
  五回も受賞作なしという事態はむろん前代未聞であるが、
  当時の選考委員たちの思考停止ぶりは目を覆うばかりだった。
  (引用者注:その他の島田の芥川賞候補作は
  『優しいサヨクのための嬉遊曲』『亡命旅行者』『夢遊王国のための音楽』)。


  本来、他人に冷淡な世間さえもが君に同情した。
  君も選考委員たちのネグレクトにブチ切れて、
  週刊誌の取材に応じ、名指しで安岡章太郎開高健を罵倒した。
  同時期に詠美(引用者注・山田詠美)も繰り返し候補に挙がっていたが、
  彼女も君と同様に異端視されたか、
  芥川賞に嫌われ、最終的に直木賞に拾われた。


  この時期に新選考委員に加わった古井由吉から後に聞いた話だが、
  「戦犯」は安岡章太郎で、
  自身の体調不良と日々の鬱屈から新奇なものは頑なに認めず、
  開高健が大きな声で同調し、他の選考委員を引かせるという展開だったらしい。
  つまりは一人の作家に取り憑いたふさぎの虫が
  この時期の芥川賞を低迷させていたということになる。


  なぜこうも君が嫌われるのか、
  いくら考えても「頭がよく、顔もいい生意気な青二才だから」
  という理由しか思い浮かばなかった。
  君は不名誉な最多落選記録を樹立してしまったが、
  これを機に芥川賞の主催団体の文藝春秋からは
  一方的に「卒業宣告」を受け、以後は候補作にしない旨を通達された。

                             (p.226


島田は現在芥川賞選考委員9名のひとりである。
島田の視点からは一連の芥川賞落選騒動がどう見えていたのか、
よく理解できた。


この作品はこんな文章で終わる。


  どんな秘密もいつかは公開される。
  常時、隠蔽の圧力はかかるが、二十五年から三十年の歳月が経過したら、
  いかなる公文書も個人情報も明かされるのが原則だ。


  だが、個人の脳にだけ保存された記憶、記録は
  死後に遺体と一緒に焼かれてしまう。
  そうやってどれだけ多くの秘密があの世に持ち去られてしまったことか。


  そう遠くない未来、自分の記憶も取り出せなくなってしまうので、
  その前にすでに時効を迎えた若かった頃の愚行、恥辱、過失の数々を
  文書化しておくことにした。
  それにうってつけの形式は私小説をおいてほかにない。


  正直者がバカを見るこの国で本当のことをいえば、異端扱いされるだろうが、
  それを恐れる者は小説家とはいえない。
  小説、とりわけ私小説は嘘つきが正直者になれる、
  ほとんど唯一のジャンルなのである。


  ただ、一人称で書く恥ずかしさには耐えられず、
  私事を他人事と突き放した。
  いうまでもなく、君は私で、私が君だ。
  恥を上塗りする人生はこの後もしばらく続くが、
  時効が来たら、書き継ぐかもしれない。

        (初出/「すばる」2018年6月号〜2019年3月号)


優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)

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(島田のデビュー作で、最初の芥川賞候補作)

谷崎潤一郎スペシャル 2020年10月 (NHK100分de名著)

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