荻野アンナ選評:角田光代訳『源氏物語』(全3巻)(河出書房新社)

クリッピングから
讀賣新聞2021年2月1日朝刊
第72回読売文学賞/研究・翻訳賞
源氏物語」(全3巻)
訳・角田光代(かくた・みつよ)



  原文に近いスピード感再現


  千年の古典が、角田光代氏の筆の力で
  現代小説の読みやすさを獲得した。
  かといって、するりと読む抜けるのとは違う。
  読者はしかるべきところで立ち止まる。


  たとえば「夕顔」の導入部。
  謎の美女が住まう館の板塀に、蔓草(つるくさ)が茂り、


    「白い花がひとつ、笑うように咲いている」。
  
  
  卓抜な比喩に、原文を確かめてみたくなった。

 
    <白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉ひらけたる。>

  
  こうなると、他の現代語訳が気になる。
  まず、谷崎潤一郎訳を参照した。


    <白い花が自分ひとり得意顔に咲いています。>


  最近の林望訳では以下の通り。


    <見れば真っ白な花が、一人にっこりと
    微笑(ほほえ)むように咲いている。>


  他にも幾つか目を通したが、
  古典に通じた訳者は、つい説明的になりがちだ。
  角田訳はいったん飲み込んで、
  発酵させてから自身の言葉に落とし込む。
  敷衍(ふえん)しないため表現は簡潔となり、
  むしろ原文に近いスピード感が再現されている。


  角田訳の宇治十帖(うじじゅうじょう)を
  出色の出来と評した選者がいた。
  たしかに「浮舟」の異様な迫力には胸が締め付けられた。
  文学の物の怪(け)が、作者と訳者、そして読者に憑依(ひょうい)する。
  希有(けう)な読書体験を約束してくれる新訳だ。

                       (荻野アンナ


  ■選考委員(50音順) 
  荻野アンナ(作家、仏文学者)、川上弘美(作家)、川村湊(文芸評論家)、
  高橋睦郎(詩人)、辻原登(作家)、沼野充義(文芸評論家、ロシア・東欧文学者)、
  野田秀樹(劇作家)、松浦寿輝(詩人、作家、批評家)、若島正英米文学者)、
  渡辺保演劇評論家


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2020年度小説賞は該当作がなかった。


(第53回/2002年度小説賞)

君が異端だった頃

君が異端だった頃

(第71回/2019年度小説賞)


先日読み終えた島田雅彦『君が異端だった頃』
第71回読売文学賞選評を同選考委員の辻原登が書いている。
以下、「読売新聞デジタル版」から引用する。

 
  圧倒的な共感のうちに読み終えた。
  “島田雅彦”と名付けられたトリックスターたる存在
  「君」の幼少年時代に遡って(両親の出会いまで含む)、
  多摩丘陵の森をさまよい、「ここは何処(どこ)?」と
  山鳩(やまばと)のように鳴(泣)いていた「君」は、
  やがて森から飛び立って、
  賑(にぎ)やかでいかがわしかった一九七〇年~八〇年代の荒野を、
  才智(さいち)溢(あふ)るる小説志願の騎士となって遍歴する。
  

  「風車の冒険」もあれば「モンテシーノスの洞窟の夢」もある。
  勲(いさおし)と敗北、失意と得意を縄のように糾(あざな)って、
  「君」の息子の誕生(七月)と中上健次の死(八月)が重なった
  一九九二年で物語は終わる。


  この作品の読み応えは何処から来るのか? 
  それは、「自分とは何者か」「私はどこから来てどこへ行くのか」
  というモラリストとしての強い探索の筋が一本通っているからだ。
  そういう意味ではスタンダールの『アンリ・ブリュラールの生涯』を
  思い出してもいいかもしれない。
 

  二人称「君」による語り、
  というより呼び掛けが著しい効果を挙げて、
  不思議な俯瞰(ふかん)感と立体感を読者に与える。
  「君」が疲れて元気が無くなると、
  「君は私で、私が君だ」と励まし、息を吹き込む。
  その呼吸も見事で、物語のラストのフレーズもこれだ。
  深い意味でこれは完璧な小説である。

                        (辻原登