「老年にはなったけど…」(第1回) もうすぐ70歳 (四方田犬彦)

クリッピングから
月刊白水社 vol.343(2022年8月18日配信)
webふらんす「老年にはなったけど…」(四方田犬彦
第1回 もうすぐ70歳



  『人、中年に至る』を一気に執筆したのは
  2010年の1月から3月にかけてのことである。
  わたしはオスロ大学に招かれ、
  日本文化について講義をすることになった。
  その期間、日本から解放されたわたしは、
  この書物の執筆に集中したのである。
  (略)


  夕暮れの薄明のなか、わたしは新雪を踏みながら、
  自分に宛がわれた教員宿舎を探し当てた。
  典型的な山小屋で、簡素な机と椅子、
  それに暖房装置が置かれているだけだった。
  長い間閉められたままになっていた窓を開けると、
  身を切るように冷たい大気がたちまち侵入してきた。


  恐ろしい静寂である。
  わたしは突然に幸福感に襲われた。
  週に三回ほど、雪のなかを歩いて教室のある建物に行き、
  その後で買い物をして小屋に戻ってくるだけでいい。
  残余の時間は何をしようか。
  わたしは手元にいかなる資料もないままに
  一冊の書物を書いてみようを決意した。
  (略)


  到着した夜、
  わたしは大学の外へ食事に出た帰りに、花屋に立ち寄った。
  どこでどう栽培しているのか、
  色とりどりのチューリップが手に入った。
  宿舎に戻りそれを飾ってみると、
  部屋の雰囲気が少し和らいだような気がした。


  睡蓮がもう戻ってこない夏の思い出ならば、
  チューリップは夜にも消えることのない
  蝋燭の炎なのだという言葉が想い出された。
  大学時代に読書会で読んだ、
  バシュラールという科学哲学者の書物にあった言葉だ。
  こうしてわたしは『人、中年に至る』という書物を書いた。
  書き上げたとき、わたしは57歳になっていた。
  (略)