池澤夏樹/山内マリコ評:多和田葉子『白鶴亮翅』(朝日新聞出版、2023)

クリッピングから
毎日新聞2023年6月24日朝刊
「今週の本棚」池澤夏樹評(作家)
『白鶴亮翅』多和田葉子著(朝日新聞出版・1980円)



  はっかくりょうし、と読む。
  白い鶴が翼を広げた姿で、太極拳二十四式の型の一つ。
  (略)


  派手な恋愛も大冒険もないまま、
  隣人と友人の行き来だけで長篇小説が書けるかと疑うと、
  これが無類におもしろい。
  よみはじめるとずぶずぶとはまってしまう。


  その理由の第一は登場する人々の出自の多様性にある。
  極端に自閉的な国家である日本と異なって、
  今のベルリンの住民たちはここ数十年の歴史だけでも
  陸続きの各地・各国と繋(つな)がっている。


  おもしろい理由の第二は言葉、言葉、言葉。
  第一の理由の延長で、
  登場する人々はいくつもの言語を母語として、
  あるいは習得語として、生きてきた。
  (略)


  第三は達者な文体。
  実例を引用し始めるときりがないので困るのだが
  (困るという事態にはミサ(引用者注:物語の主人公)も
  日々頻繁に出会う)、
  「わたしたちはすでに濡(ぬ)れた
  落ち葉に覆われた秋に足を踏み込んでいて、
  秋は急な坂道のように冬に向かって傾斜している」
  とか
  「いつの間にかベルリンというベルを
  ちりんちりんと鳴らして笑える遊び顔」
  なんてうまいものだ。


  同じ鈴でも呼び鈴ならば「じりんじりん」が
  頭の中で「辞林辞林」という漢字に変換される。
  ドイツに駐在して大阪に帰ったパナソニックの社員から
  譲り受けた家電製品は関西弁を喋(しゃべ)る、
  等々、言葉遊び満載。
  (略)


  読み終わって気づいたのだが、
  この小説ぜんたいが話題から話題への
  ゆるやかな推移という原理でできていて、
  その意味ではこれ自体が太極拳のなぞりなのだ。
  決して功夫(カンフー)ではない。
  だから最後の場面での一瞬の活劇がとても効果的に思える。
  白鶴も戦うし、そもそも太極拳も本来は武術なのだ。
  読者としてミサと周囲の人たちと過ごす時間には
  格別の価値がある。




朝日新聞2023年7月8日朝刊
「読書」欄 評・山内マリコ(小説家)


  外国に住んだことのある人から、
  その国の事情や体験談を聞くのは楽しい。
  それらは一カ所にとどまる私の、
  ともすれば黴(か)びやすい心に風を通してくれる。


  本書は、ドイツに拠点を移して40年以上になる作家が、
  ベルリンのとある地区に引っ越したばかりのミサを主人公に、
  その日常を淡々と追った物語だ。
  夫の留学にくっついてドイツに来た彼女は、
  なんやかんやと理由をこじつけて、
  一人この国に留(とど)まっている。


  居心地の良さは、隣人との距離感。
  「友人」と言い切ると選別したニュアンスが漂い、
  「知人」では少し冷たい感じがしてしまう。
  この小説に次から次へと現れるのは、
  それほど深い仲でもない、互いに共通点で結ばれているわけでもない、
  しかし縁あって出会い日常を緩やかに共にしている人々である。
  彼らは一人として同じ人種ではない。
  みんな移民なのだ。
  (略)


  読んでいる間ずっと、部屋の窓を開けているみたいだった。
  真顔で冗談を飛ばすような低温のユーモアが冴(さ)え、何度も笑った。
  心地のいい穏やかな読書だが、その窓から不意に、
  プルーセン人という静かに滅んでいった民族や、
  東プロイセンの重層的な歴史が投げかけられる。


  戦争に次ぐ戦争。
  忙(せわ)しなく動く国境。
  民族という定義の曖昧(あいまい)さ。
  「自分が無知のまま世界史の中に放り込まれているという焦り」は、
  日本から一歩も出ない限り、味わわずに済むだろう。
  けれどそれでは、戦禍を被る国々、
  遠くの隣人たちへの、窓を閉ざすことになる。