これを希望と呼んでもいいのじゃないか(辻 仁成)

クリッピングから
朝日新聞2020年4月22日朝刊
パリに差した光り(寄稿)
作家 辻 仁成(つじ ひとなり)


  新たな価値観へ 息子と火星に向かう


新型コロナ感染拡大のためロックダウンされたパリで息子と暮らす
作家/シングルファーザー辻仁成から原稿が届いた。
最後のくだりが素晴らしかったので引用する。


  (略)
  ぼくは息子にこう言った。
  「この宇宙船は大きなミッションを持って火星に向かっているのだ」と。
  人類が火星に向かうというのは価値観の変更を意味する。
  息子は小さく頷(うなず)いた。


  アパルトマンは宇宙船であった。
  そして、毎日のジョギングを「宇宙遊泳」と呼び、
  買い物を「船外活動」とした。
  家の中に次世代を見据えた新しい社会環境を築き始めた。


  説明が難しいが、子供はこうでなければならない、大人はこうだ、
  社会とはこうである、という既成概念を一度捨てる試み。
  今後、どのような価値観が定着するかわからないので、
  子供には柔軟な思考と可能性の余白を与えたい。


  ひと月が過ぎ、宇宙船の中で様々な共同作業がはじめられた。
  日替わりシェフ制度が導入され、
  今日、息子はカンボジア料理のロクラクを作った。
  食器を洗うこと、掃除をすることなどの秩序が整ってきた。


  日常を奪われたぼくらがロックダウン下で
  一番守らなければならないことは「生活を失わない」ことだ。
  百年に一度のパンデミックと人類は遭遇してしまった。
  自分たちが生き残るためにはぼくらは支え合い、強い連帯感を落ち、
  生き抜こうと約束しあった。


  父子間の結束はこれまでになく強い。
  これを希望とよんでもいいのじゃないか、とぼくは思う。
  そうだ、人類にはまだ希望がある。


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我が家を火星に向かう宇宙船に見立てるアイデアがとてもよかった。
作家は文章の力で他人を励ますことができるのだ、と思った。