「密」な世界へのノスタルジーを捨てて(五木寛之)

クリッピングから
朝日新聞2020年12月25日朝刊
寄稿/夜の世界には もどれないから
五木寛之(作家)


コロナ禍で昼夜が逆転して
常人と同じ時間を過ごすようになった作家のエピソード。
たくまざるユーモアにニヤリとした。


  この原稿を、冬日のさす窓際の机にむかって書いている。
  これは私にとって異常なことである。
  なにしろ新人作家として一九六〇年代に仕事をはじめて以来、
  昼間に原稿を書いたことなどほとんどなかったからだ。


  ふり返ってみれば半世紀以上、そんな生活を続けてきた。
  昼間は寝ていて、夜になるとごそごそ起きあがる。
  むかしの泥棒さんと同じような暮らしだった。
  (略)


  そんな生活がずっと一生続くのだろうと思っていた。
  ところが今年の春ごろから、思いがけない異変がおきたのだ。
  ちょうど新型コロナが流行しはじめた頃から、
  なぜか生活のリズムが逆転してしまったのである。


  夜、十二時ちかくなると、あくびがでる。
  ベッドに横になると、そのまま眠ってしまう。
  そして朝の七時頃に、気持ちよく目が覚める。
  これは一体、どういうことだろう。
  なにか深刻な病気にでもなったのか。
  それともお迎えが近いのだろうかと本気で心配した。


  しかし、その後、これといった異常もない。
  そんな日常が、ひと月、ふた月と続き、
  情けないことに今現在も続いているのである。
  (略)


  私はこれまで、昼間は行動の世界、夜は想像力の世界、
  と勝手に決めていた。
  しかし、それも変わる。
  これまでの生活はもどってこない。
  そう覚悟するしかないだろう。


  <覆水盆に返らず>
  という言葉を思い出してしまった。
  「密」な世界へのノスタルジーを捨てて、
  アサッテの世界を思いつつ昼の時間を生きている。


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